2016年4月8日金曜日

政治体制の変革

今後ヴェトナムがどのような政治体制・経済発展・方向性をとれば、国民の大多数が幸福になれるのかを最後に考えてみたい。それは、単にヴェトナム社会主義共和国という国家の中で生きる人々の生活に関係するだけでなく、日本人を含めた世界の同時代を生きる人々の生活にも直接・間接に関わるからである。アジアには「社会主義」を標榜する国家がまだ三つも存続している。中国と北朝鮮とヴェトナムである。しかし、その内実を少し詳しく調べてみると、従来「正統的」と考えられてきた「社会主義」(私有財産の否定、計画経済、共産党の一党支配)を大きく逸脱している。

中国は一九七八年の郵小平による改革・開放路線によって、計画経済を放棄して市場経済を導入し、高い経済成長を達成してきた。そして、徐々に私有財産の否定を修正して、実質的な私有財産制に復帰した。二〇〇〇年の党大会による民法の新設で所有権の保護を決めたこと、○五年の党大会で資本家でも共産党員になれること等を採択したことによって、ルビコン川を渡って、実質的な社会主義を放棄したと専門家からは認定されている。「共産党による開発独裁体制」が確立されたのである。

北朝鮮は、金日成から金正日という「世襲制の社会主義」という奇妙な独裁政権で運営されている。社会主義の基本理念の「平等」を放棄した、朝鮮半島の伝統的な王朝体制に復帰している。そこには国民の幸福を第一に考える姿勢はない。金正日とその家族、そしてそれを取り巻く党幹部・軍部の一部の特権階層の利益擁護のために、現体制維持を金科玉条にしている。

2016年3月8日火曜日

弁護士費用の負担者

そこで出てきたのが、改革審の意見書にも出てきた「弁護士費用の敗訴者負担」の議論です。せめて弁護士費用くらいは負けた被告に払わせようというものですが、ただ、これはあくまでも、勝つべき者が勝てる制度が前提になければ逆効果で、証拠収集手段の抜本的強化なしにはまったくナンセンスであるということだけは、ここで指摘しておきます。

いずれにしても現在では、当事者が裁判のために費やした血のにじむような労力は、決して金銭的には報われないことになっています。「裁判官は、立証のために被害者側かどれほど苦労するかにあまり理解がない」というのが、多くの弁護士の不満としてあるのです。

裁判官にしてみれば、「裁判に勝って名誉を回復できればそれでいいではないか」、「勝訴というお墨付きをもらえば、それはもう有り難いことなのだから、それ以上何か要るというのか」というのが彼らの感覚かもしれません。しかしそれでは、「有り難く判決書をちょうだいしろ」などと言われているような気持ちになってしまいます。

むしろ、賠償金を払ってもらうことになろうものなら、ご近所の人まで寄ってたかって攻撃するようなところがあります。「お前はそんなにまでして金が欲しいのか」などと罵られます。そうした種類の騒ぎが、一九八三年に三重県で起きた「ある隣人訴訟事件」をめぐってまき起こり、全国的に問題となったことがありました。

2016年2月8日月曜日

医療行為と流れ

医療行為は、生体の異常な流れを是正することを目的として行なわれるものであるが、生体にカテ上アルのような異物を装着することを伴うことも多い。この場合、治療の目的になっている疾患と直接の関係がない形で日和見感染症が生じることがある。これは、医原性疾患ということができる。こういう場合カテ上アルを取り除くだけで、感染症が自然消滅することもよくある。しかし、いうまでもなくこの場合、本来の治療の対象となっていた疾患に対する治療は中断される。

要するに常在微生物による日和見感染症は、健康な宿主生体が保有していると考えられる排除反応を、起こせない要因があるときに生じるともいえる。したがってこの要因を取り除けるかどうかが、日和見感染症の治療が成功するかどうかを決めている。

とくに病原体を異物として見た場合、身体が不要なものを体外に捨てる機構を、改めて排除反応として考えてみよう。たとえば、咳やくしゃみのような反射といわれるものや鼻汁や涙とか痰などは、病原体に限らず異物を除去しようという反応の産物である、と理解するのが自然である。

そしてこれらの排除反応が、感染症や伝染病の症状であることが多いのも当然である。宿主生体にとって異物でしかない病原体が増殖すれば、排除反応も強く起きて当然である。同時に伝染病の場合には、この反応が、病原体を新しい宿主へと受け渡すのに役立っていることにも注意すべきである。結局、患者の排除反応が感染環の成立に必須になる。

2016年1月11日月曜日

危機の裏側

自治省がまとめた『図説 地方財政(平成十年度版)』(東洋経済新報社)によると、一般会計に占める借金の返済額の割合を示す公債費負担比率が一五%を超えると黄信号、一一〇%以上が赤信号だという。

九六年度の決算では、都道府県では赤信号はゼロだったが、黄信号は十九もあり、市町村にいたっては黄信号が千六百三十一と実に全国の自治体の半数に迫り、赤信号も五百八十七もあった。事態は年々悪化しており、九六年度の決算以後も、自治体の窮迫はさらに進んでいるとみられている。

財政危機の原因は、神奈川県が典型的だが、人件費とくに退職金支払いの負担と公共事業費の支出が目立つ。前者は、戦後大量に採用された団塊の世代が退職年齢に達したこともあるが、民間委託やアーバイトの採用などをうまく活用せず大量の人員を抱え込んだという政策の失敗があった。

後者の公共事業には自治体が自ら行う単独事業と、国の直轄事業および補助事業がある。政府は、一九九〇年代に入ってバブル崩壊による不況対策として、地方債の発行を奨励しつつ単独事業の執行を各自治体に迫った。それだけでなく、国の直轄事業や補助事業も大幅にふやした。見逃してならないのは、直轄事業にも地元負担金があるということである。

政府は、自治体の借金は地方交付税で面倒をみるといった。確かにハコ物などは二〇%程度の負担で建設できた。しかし、その二〇%が曲者で、数をふやしていくうちに、つもりつもって、自治体は現在の借金地獄に落ちて行った。そうした政府も批判されるべきだ、が、右肩上がりの経済を信じて、いや、ハブルが崩壊してからも、山のような公共事業を実施した自治体も責任は免れない。

ほとんど使われることのない文化ホール、超豪華な役所ビル、建物は立派だが展示物は貧弱な博物館などハコ物の数々、そして巨額の維持管理費をみると政策の失敗であることは明白だ。今後も自治体の危鵬が深化すれば、責任問題も浮上しそうだ。開発政策は首長や議会が先頭に立って推進してきた。これまでは開発を進めることは首長や議会のお手柄であった。その結果の破綻なのである。しかし、これを機会に、まず首長や議会の責任を追及する法的な整備を急ぐべきだ。責任を問われないために、多くの自治体で公共事業の暴走が依然として止まらないからだ。