2015年12月8日火曜日

軍事技術上もっとも注目されたもの

イラク軍の戦車の主力はソビエトの一九七二年制式のT72であったが、アメリカの最新式のMIには歯がただなかった。MIエイブラムズのエンジンはガスタービンであり、有効射程三〇〇〇メートルのT一五ミリ砲を装備しており、T72のご一〇ミリ砲では貫通できない装甲で覆われていた。空中戦ではアメリカの空中警戒管制システム(AWACS)が決定的な役割を果たした。

八〇〇キ口遠方の目標を識別し、六〇〇個の目標を探知し、そのうち二〇〇個を選択し追跡できるボーイングEセントリーが八機投入された。イラク空軍機は離陸すると同時に、セントリーによってすべて探知され、多国籍軍の戦闘機部隊に知らされ、そこにアメリカ、フランスなどの新鋭機が殺到した。五〇〇機を擁していたにもかかわらず、イラク空軍は一機も敵機を撃墜できなかった。

軍事技術上注目されたのは、飛来するミサイルを迎撃するために開発されたアメリカのパトリオットシステムの性能であった。イラクは射程五〇〇ないし六五〇キロ、弾頭重量七〇〇キログラムのソビエト製スカッドを、サウジアラビアに四一発、イスラエルに三八発撃ち込んだ。パトリオットーミサイルはスカッドの前方に打ち上げられ、至近距離で爆発し、その破片でスカッドを破壊しようとした。当時、アメリカ政府と国防省は、九〇%以上の撃墜率だと発表したが、それは嘘であった。

後の九三年付けの朝口新聞は、戦争当時イスラエルの国防相をつとめていたアレンスが、MITの研究チームに対して、「正確な統計はないが、迎撃成功数はきわめて少ない。実際無意味(なほどの数)だ」と言明していたと伝えた。レーガン時代のSDIでも、その研究開発の一部として、迎撃ミサイルの実験が四回口で成功したと政府が発表したのは、ソ連に対しては車事力を誇示し、アメリカ議会に対しては予算を獲得するための嘘であったと、ニューヨークタイムズが報道したと、九三年八月一九日の朝日新聞が書いていた。現往問題になっているTMD(地域防衛構想)の実効性もどれだけあるものか、疑わしい。

2015年11月9日月曜日

証券化を定義するのは至難

証券化を定義するのはいまだ至難ではあるが、ユーロ市場では次のような実体を表現するのに使われている。シンジケート・ローンからボンドへと資金調達市場の大勢が移行してきたこと、相対型金融または間接金融から直接金融化への流れ、FRN市場の拡大、ローンと債券の混合型金融商品の出現、銀行融資の流動化、商業銀行の投資銀行化またはマーチャント・バンキング化への傾斜が激しくなる、あらゆる金融取引形態が市場性をもつ有価証券の相互売買方式へと変化してゆく、ユーロ・ノート発行の増加、米国型のCPが大規模にユーロ市場の主要商品化する、短期金融市場と中長期資本市場との境目が曖昧化してくる、等々の現象を一元的に把握して、ユーロ市場における証券化と称しているのである。

元来、この語法や語感からいえば発生源は米国と筆者は想定している。米国では住宅抵当貸出しの証券化(抵当証券)や、自動車ローンやコンピューターリース料の債券化、さらに進んで銀行融資債権自体の転売や肩代りや銀行融資に代わって在来のCPが突然膨張しだしたという諸現象を米国におけるセキュリタイゼーションと称している。それがユーロ市場へ移転したわけである。現在のユーロ市場の動向は証券化の大きな波に揺られているので、この問題を簡単にふれておくことにしよう。

2015年10月8日木曜日

集団行動の統制がほとんど取れていない

私は、スマンギ交差点からスディルマン通りを数百メートルほどの距離にある通称カサブランカ交差点へ、自宅のアパートから徒歩で状況視察に出かけた。ここでは学生の姿はあまり見かけなかったが、数百名の群衆が道路を占拠し、古タイヤを燃やしたり、警官隊に向かってときおり爆竹や火炎瓶を投げるなど騒然としていた。一九六〇年代末の日本での学生運動高揚期に似たような現場経験をもつ私は、そのころのことを思い出しながら路上観察を行った。似ているようですいぶん違うなと思ったのは、デモをする側も取り締まる側も、集団行動の統制がほとんど取れていないことである。人数だってそんなに多くはない。だから、一見すると散漫で牧歌的な印象すら受ける。だが無統制であるということは、突然何か起きるか分からないということでもある。むしろ危険だなと感じた。

翌二四日は出勤を控え、昼から前夜と同じ場所へ視察に出かけた。やはり群衆が路上を占拠しており、アトマジャヤ大学の方角からは、おそらく催涙弾のものであろう銃声がしきりに聞こえていた。いつでも逃げ込めるように、あるビルの玄関先に陣取っていた私の目前へ、警察機動隊のカーキ色のトラックが蛇行しながら近づいてきた。突然なんの前触れもなく、幌の内側から路上へ向けて威嚇射撃らしい銃撃が続けざまに行われ、群衆が蜘蛛の子を散らすように逃げまどった。おそらく実弾ではなくゴム弾であろうが、あまりに乱暴な警備方法に驚きあきれた。

これはプロの警察による警備ではなく、できそこないの軍隊が学生や群衆を相手に戦争ごっこをしているようなものだ。私はすぐにビルのなかに待避し、幸い地下で一軒だけ営業を続けていた料理店に入り込んでソバを一杯食べ、ふたたび地上へ戻った。展開していたトラックの群が移動して警備の隙ができたのを幸い、路上に出た私は自宅まで一キロあまりの道のりを駆け戻った。そこでまた驚いたのは、私のように危険な現場から遠ざかろうとする人間は皆無に近く、逆に現場へ向けて次々に種々雑多な人の群が集まってきていることであった。

群衆の動きとは逆行してアパートヘたどり着いた私は、入口にいたガードマンに現場がすでに相当危険な状態になっていることを報告し、自室へ戻った。冷房を利かせた部屋でコーヒーを飲んでいると、備え付けのファックス機が力夕力夕と鳴りはじめた。スディルマン通りの一帯が危険な状態になっているので外出を控えるように、というJICA事務所からの警告の連絡だった。「いつもそうだが、ちょっと遅いんだよね」と私は苦笑しながら独り言をつぶやいた。警告が届く前にちゃんと帰宅していたのだから、私のささやかな冒険がおとがめの対象になる心配はもちろんない。

2015年9月8日火曜日

「イスラム系への差別」

ナチス党員のみが非道な行いをし、ドイツ軍や民間から徴兵された兵士たちは戦地でもモラルを守ったというふうに、ナチスのみが悪者にされてきたが、1955年ころからはドイツ軍がナチスに協力し、民間人を率先して殺害したなどの事実も徐々に明らかにされ始めたのだ。前出のフィッシャー元外相の調査により2010年には外務省の関与が周知のこととなり、詳細は『外務省と過去第三帝国と連邦共和国のドイツ外交官』という約900ページもの本にまとめられ、書店で買い求めることができる。

外交官というエリートが戦時中に事実を知っていたことは、多くの市民にショックをもたらした。外交官は清廉潔白のイメージがあり、関与しているとは思われていなかったからだ。市民はナチス幹部のみが状況を把握していたのだ、と思いたがっていた。細かいことを言えば、強制収容所を視察した費用を経費精算していた外交官もいたから、それを処理した経理担当者も知っていたことになる。決して少なくない数の外交官がナチスに関係していたにも拘わらず、戦後もキャリアを築いていった。しかも戦後しばらくは国外に逃亡したナチス関係者に対して、どの国でナチス犯罪者が逮捕されるかの情報を外務省が出していた。国が犯罪者を保護していたとは驚きである。

2011年4月、この章の冒頭でご紹介した「ヒトラーとドイツ人」展の後にベルリン歴史博物館でひらかれたのは「秩序と絶滅 ナチス国家の警察」という展示だった。警察のナチス関与についての包括的な展示は初めてで、一部にせよ警察官が積極的にナチスに協力していたことは大きな驚きをもたらした。5ヵ月で5万5000人が訪れた。ドイツでは、ナチス時代の戦犯を時効なく裁いている。戦後アルゼンチンで暮らしていたために裁判を逃れていた党幹部ヨーゼフーシュバムペルガーは1990年にドイツに帰国。強制労働の施設で3000人以上のユダヤ人を殺害した責任があるとして、1992年に80歳で、641件の罪により立件された。裁判には学校の授業の一環として、生徒たちが傍聴に訪れた。生徒たちはすでに強制収容所を2ヵ所訪問していたが、ナチスは本の中だけではないのだと改めて実感したと話していた。下された刑は無期懲役だった。

ナチスの関与がいまだ解明されていないとされる分野もある。例えばドイツ鉄道。戦後民営化されたが、戦時中はユダヤ人移送に大きな役割を果たしていた。多くの人が強制労働に駆り出された農業省の役割も明らかでない。2001年から2005年まで農政相を務めた緑の党のキューナスト氏が当時、調査を依頼。調査は終了したといわれているが、いまだ公開されていない。そのほか、建設省や教会の関与も示唆されているが、正式な調査や報告はない。ただ、このまま調査が進めば最終的には「人々がどれだけ知っていたか」が問われることになるだろう。すでに調査済みのものが明かされないのには、このあたりに理由があるのではないだろうか。

戦後トルコやギリシヤ、イタリアなどから出稼ぎ労働者を受け入れてきたドイツは、現在人口の約1割が移民またはその子孫であり、うち半分に当たる約400万人がイスラム系である。なかには何十年もドイツに住んでいてもドイツ語を話さない人もおり、「男尊女卑」と見える文化宗教を持ち続けるイスーフム系住民には特に、社会の「お荷物」として排斥の風潮が強まっている。なかでも娘を同族と強制結婚させたり、ドイツ人と付き合ったからといって殺したりする「名誉殺人」事件は、メディアでもよく取り上げられる。

2015年8月10日月曜日

急激に労働需要が拡大

この高度成長は、日本経済の戦後復興を完了させただけでなく、日本経済を世界の主要な工業国として位置づける事になったまさに飛躍的な期間であった。この期間は日本の歴史にとって特筆されるだけでなく、世界の経済発展の歴史の中でも注目される一時期として記憶されることになるだろう。

日本的な雇用慣行や賃金慣行が日本の産業界にひろくゆきわたり、定着する事になった背景には、実はこのめざましい経済成長が深くかかわっているのである。第二次大戦後、復興・再建への道を必死で模索し、苦闘していた日本経済は、この時代に入ると設備投資の蓄積と世界貿易の拡大とがうまく噛み合う好運に恵まれた。急速に拡大をはじめた輸出が生産を増やし、雇用を生み所得を増加させ、消費を増やすという国内経済の拡大につながって経済成長は急速に加速していった。

生産が急速に、しかも持続的に増大するので、企業は解雇や人員整理に明けくれたそれまでの暗い時代の厳しい態度とは打ってかわって雇用を増やしはじめた。多くの企業が一斉に雇用を増やしはじめたので、都会の労働力はたちまち吸収されてしまい。企業は全国各地に若い労働力を求めて求人活動を展開するようになった。

大都市や工業地帯を中心に急激に労働需要が拡大していったため、全国各地から若い労働力が陸続と大都市や工業地域に流入した。これは急速に成長する企業の熱心な採用活動の結果でもあった。企業人事・労務担当者の仕事は、それまでのような解雇や労働争議の調整は過去の話となり、もっぱら労働力の確保に集中する事になった。

こうした状況が高度成長の下で持続されたために、人々は企業に入れば長期に雇用が保障されるのは当然と思うようになった。労働力確保に懸命になっている企業には人員整理や雇用調整など考えるヒマもなかったからである。いわゆる終身雇用の社会的通念はこうした状況の中で生まれ、日本中にひろまったのである。

2015年7月8日水曜日

国際金融業務の実体

国際金融業務の実体は日々変動・発展する国際金融取引が中核であって、国際金融論は主体が取引実態の把握、その外側に歴史・制度・機構が位置する全体構成となっているからである。そのため、主要内容が変動するとともに、その内容の各部分の比重が時に応じて劇的に変化するからでもある。国際金融市場が第二次石油危機の混乱から徐々に脱して、順調に展開しはじめたかにみえた一九八二年の夏、突如として世界の国際金融市場を震憾させたのは、メキシコの債務支払い不能事態の発表であった。

原油価格が急激に引上げられても、産油国のふところに貯まったオイルーダラーを順調に世界市場に回転・還流させてゆくことができれば、結局は国際金融市場はうまく機能してゆくだろうという、一応の安心感がゆきわたった時に、メキシコ問題が勃発した。それは、あたかも天上の予定調和運動をふいに攬乱するかのように、発展途上国累積債務爆発が突発し、八二年八月以降、すべての先進国の銀行・金融機関は日夜、累積債務問題の悪夢にさいなまれるようになったのである。

2015年6月8日月曜日

信用収縮圧力の発生

こうした当局のスタンスは、金融システムが直面している問題があまりにも大規模なものとなっていることもあり、当局の対応能力に関する信頼性の低下を招いている。このように、バブル崩壊が金融機関への信頼性に相当のダメージを与えているなかで、金融システムの安定性維持が万全であるとは必ずしも想定し難くなっているのである。

バブルの破綻が銀行を中心とした金融機関への影響を介して、金融システムに思ってもみなかったインパクトを及ぼしている。大きくみれば二重のルートを通じて悪影響が表面化している。まず第一のルートは株価下落を反映した銀行の信用創造能力の著しい減退に関するものである。証券などの資産をバーゼル合意で取り決められた資産の種類ごとのウェート(リスクーウェートという)を使って、ウェート付きの資産として再計算し、それらを合計したものをリスクーアセットとして計上する。

そして、この算出されたリスクーアセットに対して、自己資本合計の比率を最低限で八%は維持することを要求している。このことは換言するならば、銀行は自己資本合計の十二・五倍までの範囲内でリスクーアセットの規模を維持すれば、八%の最低基準を満たすことが可能なことを意味する。つまり、自己資本が一単位増減するならば、リスクーアセットは同方向に二一・五単位も変化させうることになる。従って、BIS規制下では、銀行の自己資本の変動に対応する与信能力の変動倍率は、最大限で十二・五倍になる。

こうした自己資本の増減に対するリスターアセットの変動倍率は、一種のレバレッジ(挺子の効果であり、信用拡張力を意味する)であるとも考えられる。何らかの要因が作用して銀行の自己資本が一単位変化すれば、与信能力を示すリスターアセットが最大で十二・五倍もの変化を生じさせるのである。

だが、この点は、八〇年代後半におけるわが国のバブル発生の原因としてことさらに強調されるべきではない。なぜなら、八%ルールのBIS基準は各国に共通な国際的ルールであり、日本に対してだげ適用されているわけではない。BIS規制下においてわが国の銀行の行動パターンに、他国とは異なった大きな影響を及ぼしたものがあるとすれば、まず第一は自己資本の補完的項目(T2)のなかに株式など保有有価証券の含み益を四五%も算入している点である。

2015年5月13日水曜日

矛盾命題を追求する組合

座間工場へ応援にいったある労働者は、同紙上でこう語っている。「はじめは妻が非常に不安かったので、九州の田舎に帰れと言ったのですが、子供がちょうど一歳になったばかりで、長旅もできず、そのまま留守をしています。応援に出るまでは、それ程気がつかなかったのに、こんなオヤジでも、やっぱりいた方が良いらしい(笑)んで、毎週顔見せに帰っています」

応援、出向は「余剰人員」を他の部署へ二時預かり”にする制度だが、それは一種のふるい落としにも利用される。「イヤならやめたっていいよ」という。効率化の別表現でもある。生産性向上が企業の至上命令であり、生産性向上競争は、ライバル企業との熾烈な利潤競争である。前に紹介した54P計画はその極限であり、日産はこれによって、トヨタひとり当たり年間生産台数四〇台に対して三五台と差がついていたのを、一気に追いつく作戦を樹てている。現場部門では年率一〇八-セント、目標年次までの三年間で三〇パーセントの生産性向上がそのスローガンである。が、これまでも、ほぼおなじスピードで、生産性向上はなされてきていた。七一年のひとり当たり生産台数を一〇〇とすると、七五年には一四四、四年間で四四八-セント向上の成果だった。

日産経営協議会が発行している「モーターエージ」(七五年一〇月号)には、「準直部門の効率化」についての部長の座談会が掲載されている。ここでの準直部門とは、「現場」における補助作業のことである。準直部門をいかに削減するか、という議論は、まずっぎのような問題意識から提起されている。「退職状況でみますと、直接部署は退職者の一番多かった昭和四八年から比べると現在はその数が三分の一に減っています。ところが準直部署の場合はそれがまだ半分程度までしか減っていない」(人事部第一労務課長)

つまり現場は三分の一に減らしたが、補助部門はまだ半分にしか減らしていない。もっと減らすためにはどうすればいいか、というのが、この座談会のテーマである。「栃木工場は当社では最新設備を有する工場としてスタートしました。人の面でも、特に準直、間接の数は、これで生産ができるかなと思う程の少ない人数でスタートしましたが、まだまだ合理化の余地は多分にあるのではないかと思ってます……それぞれの製造部署が直接品質について責任をもってやれば、車輛検査などの対外的になくす業務を除いては、検査はいらなくなっていくのではないかと思います。このような考え方をペースに現在、栃木工場は、準直貝を二割削減しようと取り組んでいます」(栃木工場第一製造部長)検査工はなくす、つまり安全よりも生産性向上の思想である。

追浜工場の検査部次長はこういう。「今年のはじめ頃から、工機工場と一緒になっていくつかのプロジェクトを組み、準直の効率化に取り組んできましたが、最近まとまったのをみますと、三億七〇〇〇万円位かけて一一五名程の省力ができる目途がでてきました」三〇〇万円かければ、ひとり削れるという。とにかく、人間を削って生産を上げるのが、生産性向上である。「村山工場はこうである。村山工場は合併後四、五年たった四六年頃組立ラインが長くなり、生産量も数千台から二万台に増え、それに伴って、間接・準直員も雪だるま式に増えました。従って、オフライン工場を比較すると悪い方の一位だったわけです。

2015年4月8日水曜日

バブル期前後の開発の失敗

集落内の人口構成は、三集落とも小さなところだから、町会長自身が頭で計算するだけですぐ分かる。だからうすうす問題があることは分かっていたが、とくにこれまでそのことを言葉にして問題化したことはなかったようだ。我々の調査に答えながら、「何かしなければならない」、この調査はそういう内省が働き始めるきっかけになった。バスは残っても、地域が残らないのではないか。高齢者の暮らしを守るだけでなく、将来のこの村を担う人材をいかに確保するかが重要なのではないか。とはいえ、少子化問題が核心だとしても、この問題には結婚や出生、就業なども絡んでいてどう取り組んでよいか分かりにくい。しかしそれでもやはり何かはしないと。こうした話し合いの結果を鯵ヶ沢町役場にも伝え、官学民連携の集落再生事業がここからスタートすることとなった。

ところで、官学民の連携と言っても、その官に当たる鯵ヶ沢町自身が、実は何か新しいことができる状態になかった。町はこのとき、財政再建団体すれすれの状況にあったのである。そしてこのことも、これらの集落の取り組みを考える場合の重要な文脈になるので、ここで鯵ヶ沢町の過疎問題とその対策について、その経緯を振り返っておきたい。鯵ヶ沢町は、青森県南西部に位置し、日本海に面した人口約一万二〇〇〇人の町である。近年は、秋田犬「わさお」でも話題となった町だ。昭和の合併前には鯵ヶ沢町、赤石村、中村、鳴沢村、舞戸村の五つの町村だった。

人口のピークは町村合併時の人口約二万三〇〇〇人(一九五五年)で、そこから一度も人口増加することなく減少を続けており、第3章で示したΛ型の人口推移を示す地域だ。一九七〇年から過疎法の指定を受けている(一時、経過措置団体。一九九〇年から再指定)。港湾機能や公共機関、商業施設が集まる鯵ヶ沢地区・舞戸地区が、都市・郊外的様相を呈しているのに対し、深谷地区を含む赤石川沿いに開けた赤石地区、中村川沿いの中村地区、鳴沢川沿いの鳴沢地区は農林業を主とした農村地帯である。これらの農村地帯は、川沿いに内陸山間部にまで集落が点在し、中村川・鳴沢川の上流部は岩木山に、また赤石川の上流部は世界自然遺産・白神山地に連なっている。

鯵ヶ沢は、近世には弘前藩の御用湊として栄えた。明治以降は鉄道の敷設などに伴って陸上交通への転換が進むが、町そのものはその後、西海岸地域の行政的・経済的中心地としての性格を強めていく。しかし、町村合併が行われた一九五〇年代から、公共機関の統合集約化が進み、鯵ヶ沢町の拠点性は弱まって町の衰退が始まった。それはおりしも、地域の主要産業である農林漁業の衰退とも重なっていた。こうした過疎化の進行を受けて、町では大規模施設の導入を進め、事態の打開を狙っていく。一九八三(昭和六三)年に七里長浜港の建設着工、一九八九(平成元)年にはリソート開発ブームに乗って鯵ヶ沢スキー場がオープンする。一九九四(平成六)年にはさらに鯵ヶ沢ゴルフ場、鯵ヶ沢プリンスホテルが建設されたが、七里長浜港はいまだ未完成。またリソート施設も、経営主体であるコクドが破綻し、現在は名称を変えて営業中である。

このような経緯を経ながら、鯵ヶ沢町はいわゆる財政再建団体すれすれのところまで行き、二〇〇六(平成一八)年に夕張市の財政再建団体入りが問題になった際にも、次の夕張としてひそかに噂されていた地域の一つとなるが、この財政困難の状況が生まれてきた直接の要因になっているのが、九〇年代に建設された、ある施設の存在である。JR五能線で、弘前から日本海に出ると、鯵ヶ沢駅に至る手前の海岸べりに見えてくる、ひときわ目立つ四角く大きな建物がある「日本海拠点館」がその問題の施設である。一九八九(平成元)年、町制一〇〇周年を記念し、町出身の有識者を招いて開催された「港町未来フォーラム」。ここでなされた提言が、「環日本海時代の到来」「観光開発」「人材育成・国際交流」でめった。

2015年3月9日月曜日

円高後悪化した雇用情勢

86年以降の円高不況の中で、雇用についてはかなり悲観的な見方が強まった。まず、雇用全体を見ると。失業率が上昇した。日本の失業率は低いことで有名だったが、87年5月には3.2%まで上昇した。日本もいよいよ高失業時代に入ったという議論も現われた。

生産現場だけでなく事務部門にまで及びはじめたマイクロエレクトロニクス技術革新が雇用機会を奪うのではないか、日本企業の海外への進出による。空洞化”が、国内の雇用情勢を深刻化するのではないかといった点も大いに心配された。労働組合が、賃上げより雇用機会の確保をという意識を強めてきたのもこの頃からであった。

また、マクロではある程度の雇用のレベルを維持できたとしても、ミクロのレベルでは労働力の需要と供給がすれ違うという、いわゆる「ミスマッチ」論もさかんに主張された。

その第一は、若年層と中高年層とのミスマッチである。日本は急速に高齢化社会に移行していくことが確実であることを考えると、もともと中高年層の雇用情勢が厳しいものとなることは予想されていたが、円高不況の中で、企業は中高年層をターゲットに雇用調整を始めたので、年齢別のミスマッチ現象はさらに目立つことになった。

第二は、都市部と地方との地域別にみたミスマッチである。地方では輸出型産業の生産が落ち込み、公共投資も抑制されていたから、都市部に比べて雇用情勢が悪化した。

第三は、産業別のミスマッチである。産業構造の変化により、造船、繊維などの「構造不況」産業では余剰労働力が発生する一方、サービス産業では雇用機会が拡大するといった動きが現われる。87年版の「労働白書」は、93年までに予想される経済構造の変化を達成するためには、第二次産業から二百万人以上が流出し、第三次産業に二百万人以上が流入する必要があると推計した。

第四は、職種別のミスマッチである。とくに、コンピュータ、情報、ハイテク関係の専門的職業分野で雇用機会が増大しても、職種転換はそれほど簡単ではないため、ミスマッチが目立つことになったのである。

こうして雇用について悲観的な見方が強まったのは、基本的にはすべて円高が原因であった。円高に対して企業は設備・雇用の調整による合理化にとり組んだ。その影響は相対的に労働コストの高い中高年層を中心に現われた。円高は産業構造を大きく変化させ、輸出依存度の高い素材型産業が立地する地域の雇用がとくに打撃を受けた。

産業構造の変化は労働需要の中味にも影響を与え、職種別のミスマッチが強まった、という具合である。しかし、これは日本経済が円高にまだ適応できない間に生じたことであり、その後、円高への適応が急速に進むにつれて、悲観的な見方は大きく変化することになる。

2015年2月9日月曜日

所得は高くても購買力は低い日本

それ以外の六費目については、おおよそ、対応している。このように費目の対応が二つのデーターセットで違う場合には、通常、費目分割が粗い方のデーターセットにあわせる方がよい。もし、粗い方のデータではなく細いデーターセットに合わせようとすると、それこそ、経済企画庁に行き、原データから集計し直さなければならない。そのようなことは経済企画庁にいる人でなければ到底できない作業である。

ここまでは経済分析が行われる際の地道な作業について書いたが、ここから内外価格差がどのようになっているのかを具体的な数字をあげて説明しよう。一九九四年の『物価レポート』によれば、東京の価格はアメリカ合衆国やヨーロッパのどの都市よりも高い。平均的に東京の価格はニューヨークの価格の一・四〇倍、ロンドンの一・四六倍、パリの一・二六倍、ベルリンの一・八倍にもなっている。

この数字は東京を一に直すと、ニューヨークでは〇・七一、ロンドンで〇・六九、パリで〇・七四、ベルリンでは〇・七二という値になる。このように平均的にみれば、東京の物価はアメリカ合衆国やヨーロッパの諸都市と比較して四〇%は確実に高いことになる。それでは個々の費目の価格についてはどのような価格差があるのだろうか。これを次にみよう。

表には『物価レポート』によって公表され、私か推定のために加工したデータがある。ここでは四つの都市について、八つの費目の東京との価格比較が行われている。この表の見方は、ニューヨークやヨーロッパ諸都市の当該費目の価格を一〇〇としたとき、東京の価格はいくらになるだろうという指数である。食料費の価格を比較してみると、ニューヨークを一〇〇とすると東京の価格は一・六倍、ロンドンと比較すると東京の食料価格は二・二倍、パリやベルリンと比較しても一・九倍も高いということである。このように東京の食料価格が他の都市と比較して二倍もするということは、経済原則から考えても、なにか市場に大きな異常があるとしか考えられない。

2015年1月12日月曜日

外国勢力が衝突する中央アジア

四二年一月、一九万ポンドの金と一四万ポンド相当の物品をさしだすことで反乱側をなだめ、激減した四五〇〇のイギリス軍は二〇〇〇の役人をつれ、雪中をジャララバードめざして落ちのびた。それをめがけて待ちぶせていた反乱側か総攻撃をかけたため、イギリス軍は全滅し(一部は捕虜となった)、ジャララバードにたどりついたのはイギリス人の医師ひとりだった。

寒さと食糧不足にさらされ敗走した点で、一八一二年にロシアから退却したナポレオン軍と共通していたと、エングルスは付記している。そのままではイギリスの威信にかかわる。イギリスは再び軍隊を送り、アフガニスタンの各地で殺戮をしてまわったあと、ドストームハンマド国王を復位させることで、四二年の末にどうにかイギリスは第一次アフガニスタン戦争に幕をひいた。

アフガエスタンには、低緯度の山岳国の特徴として、あらゆる気候帯が存在する。北東から南西に走るヒンズークシ山脈の裾野の草地では羊が放牧され、その毛で絨緞が織られた。麓をとりまくように町が点在するが、いずれも山から流れだした川の岸やオアシスに立地する。低い谷にはあらゆる果物が育ち、綿や砂糖きびが栽培される。平和であれば文字通りの桃源郷である。

だが、エングルスが指摘するように、昔から外国勢力が衝突する中央アジアにあって、アフガニスタンに暮らす人々は勇敢・不屈・独立の民で、牧畜と農業には献身的だが、商業を軽蔑しヒンドゥー系その他の都市民にまかせてきた。彼らにとり戦争は心の燃えるもの、単調で苦しい仕事からの解放だった。政治的には、部族の長が一種の封建的支配権をもち、規則にたいする嫌悪と個人の独立心のため、アフガユスタンはひとつの強力な国家にはならなかった。「君主国だが、不覇奔放な臣下にたいする国王の権威は個人的なものにとどまり、きわめて不安定である」。

エングルスの記述は、ことごとく千言的である。一六〇年経った今も、大筋はあてはまる。イギリスは、潜水艦から巡航ミサイルをアフニガスタンに打ちこみ、イタリアへ亡命していた前国王を、戦争が終わったら連れもどして据えようという国際協議に一役かって出た。イギリスがアフガユスタンで何をやってきたか、イギリス人で知っている者は口をぬぐい、歴史教科書から消されているから一般市民はあまり知らない。だが、トニー・フレア首相が知らないはずはない。