2014年5月23日金曜日

デュルケムの『自殺』

社会学の歴史を考える上でどうしても無視することのできない人物の一人に、エミール・デュルケム(Emile  Durkheim 1858-1917)というフランスの社会学者がいる。デュルケムはマルクスと同じようにユダヤ人で、ラビと呼ばれるユダヤ教の司祭の家系の出身である。マルクスの場合は、彼の父親の代でユダヤ教からキリスト教に改宗して、ゲットーと呼ばれるユダヤ人の居住区から一般人の社会に出た。

これに反してデュルケムの場合は両親ともラビの家系で、デュルケム自身もユダヤ教の司祭になることを、期待されていた。しかし幸か不幸か彼は幼いとき、カトリック信者の家庭教師の影響を受け、結局ラビになることを止めて、社会学者として名をなすことになった。このようにデュルケムは確かにユダヤ人であった。しかし彼は十九世紀後半のフランス人として、当時のフランス社会の混乱を深く憂慮した。そこで彼はフランス社会の混乱をなんとか正したいと考えて、社会の統合の問題を、一生追い続けることになったのである。

このような背景を持ったデュルケムの重要な著作の一つに、一八九七年に出版された『自殺』という書物がある。数量的研究の古典としても名高いこの書物は、同時に彼が一生追い求めた、宗教と社会的統合との関係を主要なテーマとしている。彼がこの書物でまず問題としたのは宗派の別によって、自殺率が異なるという事実であった。すなわちフランスに限らず他のヨーロでハ諸国においても、プロテスタント信者の方が、カトリック信者より多い。この表にも明らかなように、宗教的宗派と自殺率とは、宗教が原因、自殺率が結果という関係にある。そしてプロテスタント信者は自殺率が高く、カトリック信者は自殺率が低いという関係を示している。

デュルケムのこの研究について重要なことは、以上のような宗派と自殺率との関係の背後に、社会の統合に関する理論があったことである。つまり社会的結合の高い集団の場合、この成員は集団の結束力に守られて、孤独な不安感から逃れることが出来る。これに対して集団の結束が低い場合、集団の成員は当然、孤独で不安が高い。ここで重要なことは抽象度の異なるこの二組の関係が、互いに重なり合っていることである。

社会的結合という「概念」は、宗派という「作業定義」によって具体化されている。この図を縦に見るとそこでは「高い」社会的結合は、厳格な教会組織を持つ、カトリック教会によって代表される。またこの図には示されていないけれども、当然「低い」社会的結合は個人の自由度の高い、プロテスタント教会によって代表さている。同様に不安という「概念」は自殺率という「作業定義」によって、代表される。

2014年5月2日金曜日

運のまにまに

これからは若葉の季節である。私の仕事場のある表参道の並木の新緑が、日を追って萌える。そこに、茶髪の若者たちが群れる。あの若者たちも、それなりに、美しく生きることを求めているのだろう。美しく、などということではなくて、私などには想像のつかないことを求めているのかもしれない。

あの人たちは、普通の生活など、つまらないものに思っているのではないか。普通で平穏なことのありがたみなど、考えられないのではないか。若者にはそれが自然であるかもしれない。最近、茶髪が流行している。スポーツの選手にも、染めているのがいる。五十、六十の女性にも、染めているのかいる。

あれは流行である。甲子園球児の丸刈が話題になったことがあるが、丸刈は強制である。流行であれ、強制であれ、日本人は横並びになる。人の数だけ人生かある。その人生は、人ごとに違うというのに、本人は揃いたがる。美しく生きる、などということは、自分だけのものである。この地球には、六十億の人が住んでいるというから、六十億の人生があり、六十億の美しい生き方があるはずだ。

私には私だけのことしか言えないが、私は普通で、平穏で、適当にろくでなく、適当にを愛せば、それでよく、それができればありかたいことだと思っている。 普通で、平穏であることは、さほど容易なことではない。人は、稜滑であり、怯儒である。妬心や虚栄心からなかなか脱出できず、俗欲にとらわれがちである。それを払拭できなくともよい。そういうものをあしらいながら、美しいものを求めればよい。それが、普通であり、自然である。

気張ることはない。自分の求める美しいものは、自分だけのものである。人に見せる必要はないし、見せようとすれば、美しいものは梗せてしまう。美とはそういうものだと思っている。普通とは、平凡でだらけることではない。見てくれがないことである。自然体で充実す ることである。平穏は、運に恵まれないと維持できない。