2015年1月12日月曜日

外国勢力が衝突する中央アジア

四二年一月、一九万ポンドの金と一四万ポンド相当の物品をさしだすことで反乱側をなだめ、激減した四五〇〇のイギリス軍は二〇〇〇の役人をつれ、雪中をジャララバードめざして落ちのびた。それをめがけて待ちぶせていた反乱側か総攻撃をかけたため、イギリス軍は全滅し(一部は捕虜となった)、ジャララバードにたどりついたのはイギリス人の医師ひとりだった。

寒さと食糧不足にさらされ敗走した点で、一八一二年にロシアから退却したナポレオン軍と共通していたと、エングルスは付記している。そのままではイギリスの威信にかかわる。イギリスは再び軍隊を送り、アフガニスタンの各地で殺戮をしてまわったあと、ドストームハンマド国王を復位させることで、四二年の末にどうにかイギリスは第一次アフガニスタン戦争に幕をひいた。

アフガエスタンには、低緯度の山岳国の特徴として、あらゆる気候帯が存在する。北東から南西に走るヒンズークシ山脈の裾野の草地では羊が放牧され、その毛で絨緞が織られた。麓をとりまくように町が点在するが、いずれも山から流れだした川の岸やオアシスに立地する。低い谷にはあらゆる果物が育ち、綿や砂糖きびが栽培される。平和であれば文字通りの桃源郷である。

だが、エングルスが指摘するように、昔から外国勢力が衝突する中央アジアにあって、アフガニスタンに暮らす人々は勇敢・不屈・独立の民で、牧畜と農業には献身的だが、商業を軽蔑しヒンドゥー系その他の都市民にまかせてきた。彼らにとり戦争は心の燃えるもの、単調で苦しい仕事からの解放だった。政治的には、部族の長が一種の封建的支配権をもち、規則にたいする嫌悪と個人の独立心のため、アフガユスタンはひとつの強力な国家にはならなかった。「君主国だが、不覇奔放な臣下にたいする国王の権威は個人的なものにとどまり、きわめて不安定である」。

エングルスの記述は、ことごとく千言的である。一六〇年経った今も、大筋はあてはまる。イギリスは、潜水艦から巡航ミサイルをアフニガスタンに打ちこみ、イタリアへ亡命していた前国王を、戦争が終わったら連れもどして据えようという国際協議に一役かって出た。イギリスがアフガユスタンで何をやってきたか、イギリス人で知っている者は口をぬぐい、歴史教科書から消されているから一般市民はあまり知らない。だが、トニー・フレア首相が知らないはずはない。