2013年11月5日火曜日

一九九八年の政治改革

まず一九八一年には、全国の二〇県(ソンカク)に県発展委員会を設立し、県内の開発優先事項を自ら決定する権限を与えるという地方分権化を始めた。そして一九九一年には、全国の二〇〇村(ゲオ)に村発展委員会を設立し、この自決権限を村レベルにまで広めた。そして国会議員の選挙は、一村を一選挙区(人口が少ない地域では、数村で一選挙区)とし、選挙区ごとに国会議員を一人選出するという体制が打ち立てられた。こうして選出される国会議員は二一〇人ほどで、ブータンの人口は約六〇万人であるから、全国平均で四〇〇〇人(成人人口にすれば二〇〇〇人程度)が自らの代表として一人の議員を国政に選出することになった。ブータンには政党もなかったので、民意の反映ということからすれば、限りなく直接民主制である。国王の意図は、国民に参政意識を芽生えさせ、主権者としての主体性を高めることであった。

そして一九九八年六月二六日で第一八一回閣僚会議の冒頭、第四代国王は、閣僚会議の解散を宣言した。この閣僚会議は、国家元首であり政府首脳である国王が議長を務め、大臣、副大臣、次官数人、および王立諮問会議委員から構成される政府の最高決定機関である。三日後、六月二九日、第七六回国会の冒頭で、国王は電撃的な声明文を読み上げた。国王は、政府首脳としての行政権を放棄し、それを閣僚会議に委譲し、閣僚会議は国会が選出する大臣で構成され、その第一回選挙は今国会中に行うこと、閣僚会議の機能・権限に関しては、その草案を次期国会までに作成し、次期国会で審議・採決すること、国会は三分二の賛成で国王罷免権をもつこと、の三点を柱とする抜本的な政治改革を提案した。

青天の露朧ともいえるこの声明文に、閣僚会議も国会も動転した。長年国王にもっとも親しく仕えてきた大臣が国王に直訴し、政府首脳を辞すことだけは思い留まってほしいと嘆願した。そのとき国王は、「わたしの即位以来、わたしに最も近かったお前が、そんなことを言うとは、お前はわたしが長年意図し、その実現のために努めてきたことを何も理解していなかったことの表明であり、悲しい」と一言述べられた。これは、閣僚、国民の誰一人として夢想だにできなかったほどに先を見据えた国王の先見性を物語っている。この大臣は、「このときわたしは、親から見捨てられた子どものように途方に暮れた」とわたしに述懐した。このときのブータン政府は、言ってみれば国王という親に養ってもらってきた「乳飲み子」であり、政治的にまったく未熟であった。

国王罷免権については、すでに第三代国王の時代に前例があるとはいえ、当時の国会議員の大半は夢想だにできず、国王に提案撤回を要求した。しかし国王は、この提案は長年にわたって、自分が熟考に熟考を重ねた結果であり、将来の国益につながるとして、頑として撤回しなかった。数日にわたる、かつてない活発な論議の末、国会は国王の提案を受け入れた。というよりは、国王の意向であるから、あえてそれを拒否はできず、尊重した、というのが実情である。国民の政治意識、主体性は、国王が期待したほどには高まっていなかったことを物語っている。

大臣の選出は、初めてということもあって、国会の要請で、国王が候補者を指名し、その各々にたいして、国会が適不適の投票をすることになった。六人が候補者に挙げられ、選挙の結果、全員が過半数の得票で選出された。閣僚会議法および国王不信任投票に関しては、法案作成委員会を設け、次期国会で審議・議決することになった。七月二〇日、国会により新たに選出された大臣六人、同じく新たに選出された王立諮問会議委員、高等裁判所長官を構成メンバーとする、新しい制度のもとでの第一回閣僚会議が開かれた。その席上で国王は、その議長=政府首脳職を辞し、自分は国家元首として、国の独立・安全と国民の福祉の確立・保護を任務とすると言い渡した。