2013年8月28日水曜日

美しい町並みこそ観光資源

都会からやってくる観光客がもっとも気にするのが衛生施設だ。少なくともトイレと風呂だけはホテル並みの、いわば民宿ホテルとも呼べる施設である。外見は古民家だが、中に入ると高級ホテル並みというわけだ。もちろん建物自体も、台風などにト分に耐えられるように補強しなければならない。おそらく新築の家を建てるより費用がかかるだろうが、古民家に泊まる感覚を味わってもらうためには新築では駄目なのだ。ホテルの管理は専門家に依頼してもいいが、働き手はすべて地域の人に任せることだ。接客も特別なことをせず、地元の人たちが普段もてなすような接客がいい。さらに食材はすべて地元産を使用し、料理も地元の人が食べるものをペースに、あとは見せ方を工夫すればいい。

こうすれば、観光客の落とすカネは、従業員や食材を提供する農家などを通してまんべんなく地域に落ちる。ただし、これは一軒だけでは駄目だ。何軒か集まって小さな集落にすれば、そこに沖縄の空気が生まれる。これが大事なのだ。こんなところに団体客は泊まらないだろう。個人客にのんびりと滞在してもらい、時間があれば地元を散策してもらう。これは別に私のアイデアではなく、愛媛県内子町で実際に築八〇年の民家を移築し、用地取得費も含めて七千五百万円弱をかけて「石畳の宿」という民宿ホテルにして成功した例を元に、私自身が泊まってみたいと思うホテルをアレンジしながら話しただけのことである。

ところが、肝心の職員は、まったく興味がないらしく、退屈しているのが手に取るように伝わってくる。それで私は逆に訊いた。「どういうホテルを考えているんですか?」その職員は恐縮したように言う。「民家を使ったホテルってことは、それって民宿でしよ? 私たちが考えているのはコンクリート製の立派なもので、そういうホテルに観光客を呼ぶにはどうすべきかをうかがいたかったのです」このときは何かとんでもない間違いをしでかしたような気がしたのだが、後日『美しき日本の残像』(アレックスーカー著)に次のような一文を見つけ、決して間違ってはいないことを確信した。

〈先日、タイのプーケット島に新しいリゾート建設を見に行きました。まずインドネシア人が開発したプロジェクトを見ることができました。シュロの森林をほとんどそのままにして、お客さんの部屋はその中にほとんどおとぎ話の世界のように一軒一軒散らばっていました。建築は全部木材で、タイ、中国、日本の伝統建築の良さを研究した上で設計されたものです。入口には看板がありませんでした。次に日本のプロジェクトを二つ見に行きました。本を全部伐採して、山をペチャっと、真っ平らにしています。建物は暑苦しいコンクリートづくりで、一応タイースタイルですけれども、建築者は明らかにタイの伝統建築に無知でした。かつて日本人が持っていた「木の文化」や「自然との調和」といった繊細な感覚は、戦後六〇年ですっかり消えうせ、コンクリートや大理石を使った建物こそ高級ホテルだと思いこむようになったのはなぜだろう。

沖縄も、この毒に犯されているのだ。哲学を持だない日本人は、大量生産、大量消費のおかげであらゆるものを均質化していった。人の持っているもの、着ているもの、住んでいる家、そして風景までもがのっぺりした平板なものに変わっていったのが高度成長期以降のことだ。復帰後の沖縄もそれに似ていた。かつての沖縄には本土とは違う確固としたオリジナルな文化があった。そこに本土の経済力が怒濤のように流れ込み、津波に呑みこまれるようにして、沖縄の本土化か進んでいくのである。沖縄の町並みが、本土の町並みと平準化したことを感じたのが「おもろまち」たった。かつておもろまち一帯が返還された頃、沖縄県の都市計画に関わっていた方と議論したことがある。沖縄の基幹産業が観光であることを前提に、町づくりはどうあるべきかといった内容だった。

そのとき、私か考えたのは、住民が住みやすく、働きやすく、それでいて沖縄にやってきた観光客が、「ぜひ泊まってみたい」「散策したい」と思わせるような伝統的景観の町たった。美しい自然には、美しい町並みがよく似合う。そこには調和があるからだ。美しい調和があればやすらぎがある。両者がほどよくバランスがとれたとき、光はもっとも美しく輝く。観光とは、その光を見せることだと思う。沖縄戦で破壊されるまで、首里の町は京よりも美しいと言われた。京の町並みは、道路が碁盤の目のように走る「直線の町」とすれば、首里は曲がりくねった石垣の道が走る「曲線の町」だ。おそらく自然の地形にあらがうことなくっくられたからだろう。その美しさに惹かれて本土から文人たちが続々と沖縄にやってきたという。美しい町並みは観光資源なのだ。