2012年9月3日月曜日

自殺は絶望からとはかぎらない

おなじ状態の嘆きをシルダーがみたある娘はまるで別の情緒的なことばでこう訴えた。「私はもう自分でなくなってしまいました。今までの自分というものを、私はあらんかぎりの絶望的な努力でよびもどそうとしました。けれどむだでした。今までの自分はまるで切りはなされてしまったのです。私はまたはじめからやりなおさなければならない全生涯を、私は人生からはずれてわきにいるのです。第二の人間です。人生にまるでかかおりかなくて、まるでボヤソとして、おそろしくうっちゃり放しで。以前の人生は眠りこんでしまったのです」。

自分と世界か切りはなされてしまったという感じ、それは前にのべたように絶対の孤独であり、そして絶対の孤独もまた絶望の一つである。悲哀の道をとおっていきついた絶望が、自分の側から世界と自分のつながりを断ってしまったのと逆に、孤独感の方からいきついた絶望の方はまわりの世界の側からつながりの糸を切られてしまっている。

絶望の最後の場面、それは文字どおりの自己否定にほかならない。つまり自殺である。こうひとことですませておいてもかまわないのだが、念のために少々つけ加えておくと、自殺にはからだの自殺と心の自殺と区別しておいた方がよいのかもしれない。からだの自殺には別に蛇足を加えぬとして、心の自殺の方もこれにおとらない重大事だといいそえておきたい。つまり人間は絶望を媒介として回生できるということ、精神的に一度本当に死ぬことをとおって。前の人間とは別の、第二の人間に生まれかわるということである。

そういえば自殺は絶望からとはかぎらないこともつけ加えておこう。それには一つの例をI情死という例をあげるだけにとどめたいが、ほかにもいろいろあることは多少考えをめぐらせば思いつくことである。たとえば、演出自殺、あてつけ自殺、意志的自殺など。ところで情死をとげるまでには、社会、ことに「家」の制約がつよいことが大切な囚子となっているのはいうまでもないが、ここではふれぬことにして、純粋に心理的に考えていこう。

情死のもとである恋愛の陶酔は、つねに現在的な瞬時性をになっており、将来への洞察や企図性を欠いている。愛の法悦ではもとめあう二つの魂と魂は無言の5ちにとけあい、外界は没し、時空のない境地がひらける。けれども情緒ははげしければはげしいだけはかなくうすれていくもので、これは人間一般に宿命的でどうにもならない。

しかも恋の心は激情を恒常化しようとし、情緒のはかなさを否定しようとする。そうするためには生命自体を否定し、法悦のなかで生を断つよりしかたかない。この意味ですべて恋愛的情緒は生命否定的といえ、太古からこの方、無数の二人同志がつねに一つのことばをもらしてきた。

「ああこのまま死んでしまえたら」という嘆息である。健全な人々にとっては、これはしかし二人の間だけの心のやりとりとして、そとにはなんの跡ものこさずにすぎ去ってしまう。ただ一瞬のうちに燃えあがれる衝動力をそなえて生まれついた特殊の人たちだけが、そとにみえる情死をとったのである。