2014年5月2日金曜日

運のまにまに

これからは若葉の季節である。私の仕事場のある表参道の並木の新緑が、日を追って萌える。そこに、茶髪の若者たちが群れる。あの若者たちも、それなりに、美しく生きることを求めているのだろう。美しく、などということではなくて、私などには想像のつかないことを求めているのかもしれない。

あの人たちは、普通の生活など、つまらないものに思っているのではないか。普通で平穏なことのありがたみなど、考えられないのではないか。若者にはそれが自然であるかもしれない。最近、茶髪が流行している。スポーツの選手にも、染めているのがいる。五十、六十の女性にも、染めているのかいる。

あれは流行である。甲子園球児の丸刈が話題になったことがあるが、丸刈は強制である。流行であれ、強制であれ、日本人は横並びになる。人の数だけ人生かある。その人生は、人ごとに違うというのに、本人は揃いたがる。美しく生きる、などということは、自分だけのものである。この地球には、六十億の人が住んでいるというから、六十億の人生があり、六十億の美しい生き方があるはずだ。

私には私だけのことしか言えないが、私は普通で、平穏で、適当にろくでなく、適当にを愛せば、それでよく、それができればありかたいことだと思っている。 普通で、平穏であることは、さほど容易なことではない。人は、稜滑であり、怯儒である。妬心や虚栄心からなかなか脱出できず、俗欲にとらわれがちである。それを払拭できなくともよい。そういうものをあしらいながら、美しいものを求めればよい。それが、普通であり、自然である。

気張ることはない。自分の求める美しいものは、自分だけのものである。人に見せる必要はないし、見せようとすれば、美しいものは梗せてしまう。美とはそういうものだと思っている。普通とは、平凡でだらけることではない。見てくれがないことである。自然体で充実す ることである。平穏は、運に恵まれないと維持できない。