都会からやってくる観光客がもっとも気にするのが衛生施設だ。少なくともトイレと風呂だけはホテル並みの、いわば民宿ホテルとも呼べる施設である。外見は古民家だが、中に入ると高級ホテル並みというわけだ。もちろん建物自体も、台風などにト分に耐えられるように補強しなければならない。おそらく新築の家を建てるより費用がかかるだろうが、古民家に泊まる感覚を味わってもらうためには新築では駄目なのだ。ホテルの管理は専門家に依頼してもいいが、働き手はすべて地域の人に任せることだ。接客も特別なことをせず、地元の人たちが普段もてなすような接客がいい。さらに食材はすべて地元産を使用し、料理も地元の人が食べるものをペースに、あとは見せ方を工夫すればいい。
こうすれば、観光客の落とすカネは、従業員や食材を提供する農家などを通してまんべんなく地域に落ちる。ただし、これは一軒だけでは駄目だ。何軒か集まって小さな集落にすれば、そこに沖縄の空気が生まれる。これが大事なのだ。こんなところに団体客は泊まらないだろう。個人客にのんびりと滞在してもらい、時間があれば地元を散策してもらう。これは別に私のアイデアではなく、愛媛県内子町で実際に築八〇年の民家を移築し、用地取得費も含めて七千五百万円弱をかけて「石畳の宿」という民宿ホテルにして成功した例を元に、私自身が泊まってみたいと思うホテルをアレンジしながら話しただけのことである。
ところが、肝心の職員は、まったく興味がないらしく、退屈しているのが手に取るように伝わってくる。それで私は逆に訊いた。「どういうホテルを考えているんですか?」その職員は恐縮したように言う。「民家を使ったホテルってことは、それって民宿でしよ? 私たちが考えているのはコンクリート製の立派なもので、そういうホテルに観光客を呼ぶにはどうすべきかをうかがいたかったのです」このときは何かとんでもない間違いをしでかしたような気がしたのだが、後日『美しき日本の残像』(アレックスーカー著)に次のような一文を見つけ、決して間違ってはいないことを確信した。
〈先日、タイのプーケット島に新しいリゾート建設を見に行きました。まずインドネシア人が開発したプロジェクトを見ることができました。シュロの森林をほとんどそのままにして、お客さんの部屋はその中にほとんどおとぎ話の世界のように一軒一軒散らばっていました。建築は全部木材で、タイ、中国、日本の伝統建築の良さを研究した上で設計されたものです。入口には看板がありませんでした。次に日本のプロジェクトを二つ見に行きました。本を全部伐採して、山をペチャっと、真っ平らにしています。建物は暑苦しいコンクリートづくりで、一応タイースタイルですけれども、建築者は明らかにタイの伝統建築に無知でした。かつて日本人が持っていた「木の文化」や「自然との調和」といった繊細な感覚は、戦後六〇年ですっかり消えうせ、コンクリートや大理石を使った建物こそ高級ホテルだと思いこむようになったのはなぜだろう。
沖縄も、この毒に犯されているのだ。哲学を持だない日本人は、大量生産、大量消費のおかげであらゆるものを均質化していった。人の持っているもの、着ているもの、住んでいる家、そして風景までもがのっぺりした平板なものに変わっていったのが高度成長期以降のことだ。復帰後の沖縄もそれに似ていた。かつての沖縄には本土とは違う確固としたオリジナルな文化があった。そこに本土の経済力が怒濤のように流れ込み、津波に呑みこまれるようにして、沖縄の本土化か進んでいくのである。沖縄の町並みが、本土の町並みと平準化したことを感じたのが「おもろまち」たった。かつておもろまち一帯が返還された頃、沖縄県の都市計画に関わっていた方と議論したことがある。沖縄の基幹産業が観光であることを前提に、町づくりはどうあるべきかといった内容だった。
そのとき、私か考えたのは、住民が住みやすく、働きやすく、それでいて沖縄にやってきた観光客が、「ぜひ泊まってみたい」「散策したい」と思わせるような伝統的景観の町たった。美しい自然には、美しい町並みがよく似合う。そこには調和があるからだ。美しい調和があればやすらぎがある。両者がほどよくバランスがとれたとき、光はもっとも美しく輝く。観光とは、その光を見せることだと思う。沖縄戦で破壊されるまで、首里の町は京よりも美しいと言われた。京の町並みは、道路が碁盤の目のように走る「直線の町」とすれば、首里は曲がりくねった石垣の道が走る「曲線の町」だ。おそらく自然の地形にあらがうことなくっくられたからだろう。その美しさに惹かれて本土から文人たちが続々と沖縄にやってきたという。美しい町並みは観光資源なのだ。
2013年8月28日水曜日
2013年7月4日木曜日
消費性向の高い年齢階層
民間企業の場合には、消費性向の高い年齢階層に所得が回らない限り、売上増加がなかなか見込めません。より困っている方が自ら動く、これが市場経済の基本です。「景気対策といえば政府がやるもの」という固定観念を植え付けられている多くの論者は、市場経済を生きる資格がありません。ですが、直接に財政を痛めずとも、政府にはできることがあります。生前贈与の促進です。 先ほど日本人の相続(受け取る側)の平均年齢がもう年金受給年齢に入った六七歳であるという話を申し上げました。これでは、受け取った側か相続財産を旺盛に使うことは望めません。何かあったときの保険として貯金を殖やし、結果的にはそのほとんどの方が大幅な使い遺しをして亡くなる。その相続人がまた平均六七歳で相続をして貯金をしてそういう連鎖を少しでも断ち切るために、生前贈与を促進する策を取って、一気に若い世代への所得移転を進めるべきなのです。
促進策としては、「〇〇年以降、金融資産や貴金属の相続に関しては、相続税の基礎控除額を大幅に減らし、課税対象拡大部分に対応した最低税率は低く設定する一方で、最高税率は上げますよ。お困りの方はそれまでに生前贈与をしてはいかがですか」と宣言するのが効果的ではないでしょうか。九〇年代以降の減税の結果、相続税を納めるのは相続人の四%少々にまで減り、納税額も年間一二」兆円程度にとどまっているそうですので、これを再拡大しても理不尽とは言えますまい。実際に(旧)税制調査会もこのところそのように答申をしていました。また私の案では、課税拡大対象は金融資産や貴金属ですので、不動産を泣く泣く手放すという事例の増加にはなりません。むしろそれで不動産に資産が逃避すれば、内需拡大にもつながります。
またこれまで相続税支払いを免れていた普通の中流の小金持ちにも若干の税金がかかるようになりますが、最低税率は五-一〇%程度と思いきり低くすれば国民生活への実害は少なく、他方で十分に生前贈与促進効果があると思われます。ところがこの生前贈与促進については、「それだけでは、たまたま親が豊かな若者しか潤わない」という反論を受けたことがあります。その通り。実際には普通の中流層が数百万円を子供に渡すだけでも大きな効果がありますので、大金持ちだけを念頭に置いているわけではまったくありませんが、「数百万円をいま子供に渡すなんて夢のまた夢」という普通の暮らし向きの人も多数いらっしゃるでしょう。
ですが、私かここでお話ししているのは日本経済の活性化策、具体的には個人消費の増加策であって、直接の格差是正策ではありません。むしろ高齢富裕層が死蔵している貯金のいささかでも若い相続人の手に渡って消費に回れば、その分企業の売上が増え、まじめに働いている若者にも給料という形で分配されます。たまたま親が豊かな若者とそうでない若者の「格差」は是正されませんが、親からの財産相続が期待できない若者でも、自分の給料が上がれば絶対的な生活水準は上がります。ある高名な経済学者(私とは異なるご意見を多々おっしやっている方ですが)が、ある雑誌で、「問題は格差ではなく貧困だ、格差解消ではなく貧困解消が大事なのだ」と書いていました。
まったくおっしゃる通りだと思います。「相対的な格差はないけれども皆が貧乏だ」という、キューバやブータンのような状態になれというのは困難ですよ(残念ながらキューバでもブータンでもむしろこれから経済活性化に伴って格差が拡大してしまうのです)。そうではなくて、格差はあるかもしれないが、仮に底辺層であっても少なくとも普通に人間らしい生活が送れ、普通に子育てもできる(さらにこれは私の年来の持論ですが、子供世代に対しては親の収入にまったく無関係に機会均等が保証されている、逆に言えば親が金持ちでも子供はそれだけで有利にはならない)ということが重要なのです。格差是正ではなくて、一定の絶対水準以下に落ち込んだ社会的弱者の、人間としての最低限ラインまでの救済こそが必要です。当然そこまで落ち込んでいない人との格差は残りますが、少なくとも「貧富の差に関係なく受けることのできる教育と平均寿命は違わない」というようなところが目指すべき水準になるのではないかと思っています。
促進策としては、「〇〇年以降、金融資産や貴金属の相続に関しては、相続税の基礎控除額を大幅に減らし、課税対象拡大部分に対応した最低税率は低く設定する一方で、最高税率は上げますよ。お困りの方はそれまでに生前贈与をしてはいかがですか」と宣言するのが効果的ではないでしょうか。九〇年代以降の減税の結果、相続税を納めるのは相続人の四%少々にまで減り、納税額も年間一二」兆円程度にとどまっているそうですので、これを再拡大しても理不尽とは言えますまい。実際に(旧)税制調査会もこのところそのように答申をしていました。また私の案では、課税拡大対象は金融資産や貴金属ですので、不動産を泣く泣く手放すという事例の増加にはなりません。むしろそれで不動産に資産が逃避すれば、内需拡大にもつながります。
またこれまで相続税支払いを免れていた普通の中流の小金持ちにも若干の税金がかかるようになりますが、最低税率は五-一〇%程度と思いきり低くすれば国民生活への実害は少なく、他方で十分に生前贈与促進効果があると思われます。ところがこの生前贈与促進については、「それだけでは、たまたま親が豊かな若者しか潤わない」という反論を受けたことがあります。その通り。実際には普通の中流層が数百万円を子供に渡すだけでも大きな効果がありますので、大金持ちだけを念頭に置いているわけではまったくありませんが、「数百万円をいま子供に渡すなんて夢のまた夢」という普通の暮らし向きの人も多数いらっしゃるでしょう。
ですが、私かここでお話ししているのは日本経済の活性化策、具体的には個人消費の増加策であって、直接の格差是正策ではありません。むしろ高齢富裕層が死蔵している貯金のいささかでも若い相続人の手に渡って消費に回れば、その分企業の売上が増え、まじめに働いている若者にも給料という形で分配されます。たまたま親が豊かな若者とそうでない若者の「格差」は是正されませんが、親からの財産相続が期待できない若者でも、自分の給料が上がれば絶対的な生活水準は上がります。ある高名な経済学者(私とは異なるご意見を多々おっしやっている方ですが)が、ある雑誌で、「問題は格差ではなく貧困だ、格差解消ではなく貧困解消が大事なのだ」と書いていました。
まったくおっしゃる通りだと思います。「相対的な格差はないけれども皆が貧乏だ」という、キューバやブータンのような状態になれというのは困難ですよ(残念ながらキューバでもブータンでもむしろこれから経済活性化に伴って格差が拡大してしまうのです)。そうではなくて、格差はあるかもしれないが、仮に底辺層であっても少なくとも普通に人間らしい生活が送れ、普通に子育てもできる(さらにこれは私の年来の持論ですが、子供世代に対しては親の収入にまったく無関係に機会均等が保証されている、逆に言えば親が金持ちでも子供はそれだけで有利にはならない)ということが重要なのです。格差是正ではなくて、一定の絶対水準以下に落ち込んだ社会的弱者の、人間としての最低限ラインまでの救済こそが必要です。当然そこまで落ち込んでいない人との格差は残りますが、少なくとも「貧富の差に関係なく受けることのできる教育と平均寿命は違わない」というようなところが目指すべき水準になるのではないかと思っています。
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