2016年4月8日金曜日

政治体制の変革

今後ヴェトナムがどのような政治体制・経済発展・方向性をとれば、国民の大多数が幸福になれるのかを最後に考えてみたい。それは、単にヴェトナム社会主義共和国という国家の中で生きる人々の生活に関係するだけでなく、日本人を含めた世界の同時代を生きる人々の生活にも直接・間接に関わるからである。アジアには「社会主義」を標榜する国家がまだ三つも存続している。中国と北朝鮮とヴェトナムである。しかし、その内実を少し詳しく調べてみると、従来「正統的」と考えられてきた「社会主義」(私有財産の否定、計画経済、共産党の一党支配)を大きく逸脱している。

中国は一九七八年の郵小平による改革・開放路線によって、計画経済を放棄して市場経済を導入し、高い経済成長を達成してきた。そして、徐々に私有財産の否定を修正して、実質的な私有財産制に復帰した。二〇〇〇年の党大会による民法の新設で所有権の保護を決めたこと、○五年の党大会で資本家でも共産党員になれること等を採択したことによって、ルビコン川を渡って、実質的な社会主義を放棄したと専門家からは認定されている。「共産党による開発独裁体制」が確立されたのである。

北朝鮮は、金日成から金正日という「世襲制の社会主義」という奇妙な独裁政権で運営されている。社会主義の基本理念の「平等」を放棄した、朝鮮半島の伝統的な王朝体制に復帰している。そこには国民の幸福を第一に考える姿勢はない。金正日とその家族、そしてそれを取り巻く党幹部・軍部の一部の特権階層の利益擁護のために、現体制維持を金科玉条にしている。

2016年3月8日火曜日

弁護士費用の負担者

そこで出てきたのが、改革審の意見書にも出てきた「弁護士費用の敗訴者負担」の議論です。せめて弁護士費用くらいは負けた被告に払わせようというものですが、ただ、これはあくまでも、勝つべき者が勝てる制度が前提になければ逆効果で、証拠収集手段の抜本的強化なしにはまったくナンセンスであるということだけは、ここで指摘しておきます。

いずれにしても現在では、当事者が裁判のために費やした血のにじむような労力は、決して金銭的には報われないことになっています。「裁判官は、立証のために被害者側かどれほど苦労するかにあまり理解がない」というのが、多くの弁護士の不満としてあるのです。

裁判官にしてみれば、「裁判に勝って名誉を回復できればそれでいいではないか」、「勝訴というお墨付きをもらえば、それはもう有り難いことなのだから、それ以上何か要るというのか」というのが彼らの感覚かもしれません。しかしそれでは、「有り難く判決書をちょうだいしろ」などと言われているような気持ちになってしまいます。

むしろ、賠償金を払ってもらうことになろうものなら、ご近所の人まで寄ってたかって攻撃するようなところがあります。「お前はそんなにまでして金が欲しいのか」などと罵られます。そうした種類の騒ぎが、一九八三年に三重県で起きた「ある隣人訴訟事件」をめぐってまき起こり、全国的に問題となったことがありました。

2016年2月8日月曜日

医療行為と流れ

医療行為は、生体の異常な流れを是正することを目的として行なわれるものであるが、生体にカテ上アルのような異物を装着することを伴うことも多い。この場合、治療の目的になっている疾患と直接の関係がない形で日和見感染症が生じることがある。これは、医原性疾患ということができる。こういう場合カテ上アルを取り除くだけで、感染症が自然消滅することもよくある。しかし、いうまでもなくこの場合、本来の治療の対象となっていた疾患に対する治療は中断される。

要するに常在微生物による日和見感染症は、健康な宿主生体が保有していると考えられる排除反応を、起こせない要因があるときに生じるともいえる。したがってこの要因を取り除けるかどうかが、日和見感染症の治療が成功するかどうかを決めている。

とくに病原体を異物として見た場合、身体が不要なものを体外に捨てる機構を、改めて排除反応として考えてみよう。たとえば、咳やくしゃみのような反射といわれるものや鼻汁や涙とか痰などは、病原体に限らず異物を除去しようという反応の産物である、と理解するのが自然である。

そしてこれらの排除反応が、感染症や伝染病の症状であることが多いのも当然である。宿主生体にとって異物でしかない病原体が増殖すれば、排除反応も強く起きて当然である。同時に伝染病の場合には、この反応が、病原体を新しい宿主へと受け渡すのに役立っていることにも注意すべきである。結局、患者の排除反応が感染環の成立に必須になる。

2016年1月11日月曜日

危機の裏側

自治省がまとめた『図説 地方財政(平成十年度版)』(東洋経済新報社)によると、一般会計に占める借金の返済額の割合を示す公債費負担比率が一五%を超えると黄信号、一一〇%以上が赤信号だという。

九六年度の決算では、都道府県では赤信号はゼロだったが、黄信号は十九もあり、市町村にいたっては黄信号が千六百三十一と実に全国の自治体の半数に迫り、赤信号も五百八十七もあった。事態は年々悪化しており、九六年度の決算以後も、自治体の窮迫はさらに進んでいるとみられている。

財政危機の原因は、神奈川県が典型的だが、人件費とくに退職金支払いの負担と公共事業費の支出が目立つ。前者は、戦後大量に採用された団塊の世代が退職年齢に達したこともあるが、民間委託やアーバイトの採用などをうまく活用せず大量の人員を抱え込んだという政策の失敗があった。

後者の公共事業には自治体が自ら行う単独事業と、国の直轄事業および補助事業がある。政府は、一九九〇年代に入ってバブル崩壊による不況対策として、地方債の発行を奨励しつつ単独事業の執行を各自治体に迫った。それだけでなく、国の直轄事業や補助事業も大幅にふやした。見逃してならないのは、直轄事業にも地元負担金があるということである。

政府は、自治体の借金は地方交付税で面倒をみるといった。確かにハコ物などは二〇%程度の負担で建設できた。しかし、その二〇%が曲者で、数をふやしていくうちに、つもりつもって、自治体は現在の借金地獄に落ちて行った。そうした政府も批判されるべきだ、が、右肩上がりの経済を信じて、いや、ハブルが崩壊してからも、山のような公共事業を実施した自治体も責任は免れない。

ほとんど使われることのない文化ホール、超豪華な役所ビル、建物は立派だが展示物は貧弱な博物館などハコ物の数々、そして巨額の維持管理費をみると政策の失敗であることは明白だ。今後も自治体の危鵬が深化すれば、責任問題も浮上しそうだ。開発政策は首長や議会が先頭に立って推進してきた。これまでは開発を進めることは首長や議会のお手柄であった。その結果の破綻なのである。しかし、これを機会に、まず首長や議会の責任を追及する法的な整備を急ぐべきだ。責任を問われないために、多くの自治体で公共事業の暴走が依然として止まらないからだ。

2015年12月8日火曜日

軍事技術上もっとも注目されたもの

イラク軍の戦車の主力はソビエトの一九七二年制式のT72であったが、アメリカの最新式のMIには歯がただなかった。MIエイブラムズのエンジンはガスタービンであり、有効射程三〇〇〇メートルのT一五ミリ砲を装備しており、T72のご一〇ミリ砲では貫通できない装甲で覆われていた。空中戦ではアメリカの空中警戒管制システム(AWACS)が決定的な役割を果たした。

八〇〇キ口遠方の目標を識別し、六〇〇個の目標を探知し、そのうち二〇〇個を選択し追跡できるボーイングEセントリーが八機投入された。イラク空軍機は離陸すると同時に、セントリーによってすべて探知され、多国籍軍の戦闘機部隊に知らされ、そこにアメリカ、フランスなどの新鋭機が殺到した。五〇〇機を擁していたにもかかわらず、イラク空軍は一機も敵機を撃墜できなかった。

軍事技術上注目されたのは、飛来するミサイルを迎撃するために開発されたアメリカのパトリオットシステムの性能であった。イラクは射程五〇〇ないし六五〇キロ、弾頭重量七〇〇キログラムのソビエト製スカッドを、サウジアラビアに四一発、イスラエルに三八発撃ち込んだ。パトリオットーミサイルはスカッドの前方に打ち上げられ、至近距離で爆発し、その破片でスカッドを破壊しようとした。当時、アメリカ政府と国防省は、九〇%以上の撃墜率だと発表したが、それは嘘であった。

後の九三年付けの朝口新聞は、戦争当時イスラエルの国防相をつとめていたアレンスが、MITの研究チームに対して、「正確な統計はないが、迎撃成功数はきわめて少ない。実際無意味(なほどの数)だ」と言明していたと伝えた。レーガン時代のSDIでも、その研究開発の一部として、迎撃ミサイルの実験が四回口で成功したと政府が発表したのは、ソ連に対しては車事力を誇示し、アメリカ議会に対しては予算を獲得するための嘘であったと、ニューヨークタイムズが報道したと、九三年八月一九日の朝日新聞が書いていた。現往問題になっているTMD(地域防衛構想)の実効性もどれだけあるものか、疑わしい。

2015年11月9日月曜日

証券化を定義するのは至難

証券化を定義するのはいまだ至難ではあるが、ユーロ市場では次のような実体を表現するのに使われている。シンジケート・ローンからボンドへと資金調達市場の大勢が移行してきたこと、相対型金融または間接金融から直接金融化への流れ、FRN市場の拡大、ローンと債券の混合型金融商品の出現、銀行融資の流動化、商業銀行の投資銀行化またはマーチャント・バンキング化への傾斜が激しくなる、あらゆる金融取引形態が市場性をもつ有価証券の相互売買方式へと変化してゆく、ユーロ・ノート発行の増加、米国型のCPが大規模にユーロ市場の主要商品化する、短期金融市場と中長期資本市場との境目が曖昧化してくる、等々の現象を一元的に把握して、ユーロ市場における証券化と称しているのである。

元来、この語法や語感からいえば発生源は米国と筆者は想定している。米国では住宅抵当貸出しの証券化(抵当証券)や、自動車ローンやコンピューターリース料の債券化、さらに進んで銀行融資債権自体の転売や肩代りや銀行融資に代わって在来のCPが突然膨張しだしたという諸現象を米国におけるセキュリタイゼーションと称している。それがユーロ市場へ移転したわけである。現在のユーロ市場の動向は証券化の大きな波に揺られているので、この問題を簡単にふれておくことにしよう。

2015年10月8日木曜日

集団行動の統制がほとんど取れていない

私は、スマンギ交差点からスディルマン通りを数百メートルほどの距離にある通称カサブランカ交差点へ、自宅のアパートから徒歩で状況視察に出かけた。ここでは学生の姿はあまり見かけなかったが、数百名の群衆が道路を占拠し、古タイヤを燃やしたり、警官隊に向かってときおり爆竹や火炎瓶を投げるなど騒然としていた。一九六〇年代末の日本での学生運動高揚期に似たような現場経験をもつ私は、そのころのことを思い出しながら路上観察を行った。似ているようですいぶん違うなと思ったのは、デモをする側も取り締まる側も、集団行動の統制がほとんど取れていないことである。人数だってそんなに多くはない。だから、一見すると散漫で牧歌的な印象すら受ける。だが無統制であるということは、突然何か起きるか分からないということでもある。むしろ危険だなと感じた。

翌二四日は出勤を控え、昼から前夜と同じ場所へ視察に出かけた。やはり群衆が路上を占拠しており、アトマジャヤ大学の方角からは、おそらく催涙弾のものであろう銃声がしきりに聞こえていた。いつでも逃げ込めるように、あるビルの玄関先に陣取っていた私の目前へ、警察機動隊のカーキ色のトラックが蛇行しながら近づいてきた。突然なんの前触れもなく、幌の内側から路上へ向けて威嚇射撃らしい銃撃が続けざまに行われ、群衆が蜘蛛の子を散らすように逃げまどった。おそらく実弾ではなくゴム弾であろうが、あまりに乱暴な警備方法に驚きあきれた。

これはプロの警察による警備ではなく、できそこないの軍隊が学生や群衆を相手に戦争ごっこをしているようなものだ。私はすぐにビルのなかに待避し、幸い地下で一軒だけ営業を続けていた料理店に入り込んでソバを一杯食べ、ふたたび地上へ戻った。展開していたトラックの群が移動して警備の隙ができたのを幸い、路上に出た私は自宅まで一キロあまりの道のりを駆け戻った。そこでまた驚いたのは、私のように危険な現場から遠ざかろうとする人間は皆無に近く、逆に現場へ向けて次々に種々雑多な人の群が集まってきていることであった。

群衆の動きとは逆行してアパートヘたどり着いた私は、入口にいたガードマンに現場がすでに相当危険な状態になっていることを報告し、自室へ戻った。冷房を利かせた部屋でコーヒーを飲んでいると、備え付けのファックス機が力夕力夕と鳴りはじめた。スディルマン通りの一帯が危険な状態になっているので外出を控えるように、というJICA事務所からの警告の連絡だった。「いつもそうだが、ちょっと遅いんだよね」と私は苦笑しながら独り言をつぶやいた。警告が届く前にちゃんと帰宅していたのだから、私のささやかな冒険がおとがめの対象になる心配はもちろんない。

2015年9月8日火曜日

「イスラム系への差別」

ナチス党員のみが非道な行いをし、ドイツ軍や民間から徴兵された兵士たちは戦地でもモラルを守ったというふうに、ナチスのみが悪者にされてきたが、1955年ころからはドイツ軍がナチスに協力し、民間人を率先して殺害したなどの事実も徐々に明らかにされ始めたのだ。前出のフィッシャー元外相の調査により2010年には外務省の関与が周知のこととなり、詳細は『外務省と過去第三帝国と連邦共和国のドイツ外交官』という約900ページもの本にまとめられ、書店で買い求めることができる。

外交官というエリートが戦時中に事実を知っていたことは、多くの市民にショックをもたらした。外交官は清廉潔白のイメージがあり、関与しているとは思われていなかったからだ。市民はナチス幹部のみが状況を把握していたのだ、と思いたがっていた。細かいことを言えば、強制収容所を視察した費用を経費精算していた外交官もいたから、それを処理した経理担当者も知っていたことになる。決して少なくない数の外交官がナチスに関係していたにも拘わらず、戦後もキャリアを築いていった。しかも戦後しばらくは国外に逃亡したナチス関係者に対して、どの国でナチス犯罪者が逮捕されるかの情報を外務省が出していた。国が犯罪者を保護していたとは驚きである。

2011年4月、この章の冒頭でご紹介した「ヒトラーとドイツ人」展の後にベルリン歴史博物館でひらかれたのは「秩序と絶滅 ナチス国家の警察」という展示だった。警察のナチス関与についての包括的な展示は初めてで、一部にせよ警察官が積極的にナチスに協力していたことは大きな驚きをもたらした。5ヵ月で5万5000人が訪れた。ドイツでは、ナチス時代の戦犯を時効なく裁いている。戦後アルゼンチンで暮らしていたために裁判を逃れていた党幹部ヨーゼフーシュバムペルガーは1990年にドイツに帰国。強制労働の施設で3000人以上のユダヤ人を殺害した責任があるとして、1992年に80歳で、641件の罪により立件された。裁判には学校の授業の一環として、生徒たちが傍聴に訪れた。生徒たちはすでに強制収容所を2ヵ所訪問していたが、ナチスは本の中だけではないのだと改めて実感したと話していた。下された刑は無期懲役だった。

ナチスの関与がいまだ解明されていないとされる分野もある。例えばドイツ鉄道。戦後民営化されたが、戦時中はユダヤ人移送に大きな役割を果たしていた。多くの人が強制労働に駆り出された農業省の役割も明らかでない。2001年から2005年まで農政相を務めた緑の党のキューナスト氏が当時、調査を依頼。調査は終了したといわれているが、いまだ公開されていない。そのほか、建設省や教会の関与も示唆されているが、正式な調査や報告はない。ただ、このまま調査が進めば最終的には「人々がどれだけ知っていたか」が問われることになるだろう。すでに調査済みのものが明かされないのには、このあたりに理由があるのではないだろうか。

戦後トルコやギリシヤ、イタリアなどから出稼ぎ労働者を受け入れてきたドイツは、現在人口の約1割が移民またはその子孫であり、うち半分に当たる約400万人がイスラム系である。なかには何十年もドイツに住んでいてもドイツ語を話さない人もおり、「男尊女卑」と見える文化宗教を持ち続けるイスーフム系住民には特に、社会の「お荷物」として排斥の風潮が強まっている。なかでも娘を同族と強制結婚させたり、ドイツ人と付き合ったからといって殺したりする「名誉殺人」事件は、メディアでもよく取り上げられる。

2015年8月10日月曜日

急激に労働需要が拡大

この高度成長は、日本経済の戦後復興を完了させただけでなく、日本経済を世界の主要な工業国として位置づける事になったまさに飛躍的な期間であった。この期間は日本の歴史にとって特筆されるだけでなく、世界の経済発展の歴史の中でも注目される一時期として記憶されることになるだろう。

日本的な雇用慣行や賃金慣行が日本の産業界にひろくゆきわたり、定着する事になった背景には、実はこのめざましい経済成長が深くかかわっているのである。第二次大戦後、復興・再建への道を必死で模索し、苦闘していた日本経済は、この時代に入ると設備投資の蓄積と世界貿易の拡大とがうまく噛み合う好運に恵まれた。急速に拡大をはじめた輸出が生産を増やし、雇用を生み所得を増加させ、消費を増やすという国内経済の拡大につながって経済成長は急速に加速していった。

生産が急速に、しかも持続的に増大するので、企業は解雇や人員整理に明けくれたそれまでの暗い時代の厳しい態度とは打ってかわって雇用を増やしはじめた。多くの企業が一斉に雇用を増やしはじめたので、都会の労働力はたちまち吸収されてしまい。企業は全国各地に若い労働力を求めて求人活動を展開するようになった。

大都市や工業地帯を中心に急激に労働需要が拡大していったため、全国各地から若い労働力が陸続と大都市や工業地域に流入した。これは急速に成長する企業の熱心な採用活動の結果でもあった。企業人事・労務担当者の仕事は、それまでのような解雇や労働争議の調整は過去の話となり、もっぱら労働力の確保に集中する事になった。

こうした状況が高度成長の下で持続されたために、人々は企業に入れば長期に雇用が保障されるのは当然と思うようになった。労働力確保に懸命になっている企業には人員整理や雇用調整など考えるヒマもなかったからである。いわゆる終身雇用の社会的通念はこうした状況の中で生まれ、日本中にひろまったのである。

2015年7月8日水曜日

国際金融業務の実体

国際金融業務の実体は日々変動・発展する国際金融取引が中核であって、国際金融論は主体が取引実態の把握、その外側に歴史・制度・機構が位置する全体構成となっているからである。そのため、主要内容が変動するとともに、その内容の各部分の比重が時に応じて劇的に変化するからでもある。国際金融市場が第二次石油危機の混乱から徐々に脱して、順調に展開しはじめたかにみえた一九八二年の夏、突如として世界の国際金融市場を震憾させたのは、メキシコの債務支払い不能事態の発表であった。

原油価格が急激に引上げられても、産油国のふところに貯まったオイルーダラーを順調に世界市場に回転・還流させてゆくことができれば、結局は国際金融市場はうまく機能してゆくだろうという、一応の安心感がゆきわたった時に、メキシコ問題が勃発した。それは、あたかも天上の予定調和運動をふいに攬乱するかのように、発展途上国累積債務爆発が突発し、八二年八月以降、すべての先進国の銀行・金融機関は日夜、累積債務問題の悪夢にさいなまれるようになったのである。

2015年6月8日月曜日

信用収縮圧力の発生

こうした当局のスタンスは、金融システムが直面している問題があまりにも大規模なものとなっていることもあり、当局の対応能力に関する信頼性の低下を招いている。このように、バブル崩壊が金融機関への信頼性に相当のダメージを与えているなかで、金融システムの安定性維持が万全であるとは必ずしも想定し難くなっているのである。

バブルの破綻が銀行を中心とした金融機関への影響を介して、金融システムに思ってもみなかったインパクトを及ぼしている。大きくみれば二重のルートを通じて悪影響が表面化している。まず第一のルートは株価下落を反映した銀行の信用創造能力の著しい減退に関するものである。証券などの資産をバーゼル合意で取り決められた資産の種類ごとのウェート(リスクーウェートという)を使って、ウェート付きの資産として再計算し、それらを合計したものをリスクーアセットとして計上する。

そして、この算出されたリスクーアセットに対して、自己資本合計の比率を最低限で八%は維持することを要求している。このことは換言するならば、銀行は自己資本合計の十二・五倍までの範囲内でリスクーアセットの規模を維持すれば、八%の最低基準を満たすことが可能なことを意味する。つまり、自己資本が一単位増減するならば、リスクーアセットは同方向に二一・五単位も変化させうることになる。従って、BIS規制下では、銀行の自己資本の変動に対応する与信能力の変動倍率は、最大限で十二・五倍になる。

こうした自己資本の増減に対するリスターアセットの変動倍率は、一種のレバレッジ(挺子の効果であり、信用拡張力を意味する)であるとも考えられる。何らかの要因が作用して銀行の自己資本が一単位変化すれば、与信能力を示すリスターアセットが最大で十二・五倍もの変化を生じさせるのである。

だが、この点は、八〇年代後半におけるわが国のバブル発生の原因としてことさらに強調されるべきではない。なぜなら、八%ルールのBIS基準は各国に共通な国際的ルールであり、日本に対してだげ適用されているわけではない。BIS規制下においてわが国の銀行の行動パターンに、他国とは異なった大きな影響を及ぼしたものがあるとすれば、まず第一は自己資本の補完的項目(T2)のなかに株式など保有有価証券の含み益を四五%も算入している点である。

2015年5月13日水曜日

矛盾命題を追求する組合

座間工場へ応援にいったある労働者は、同紙上でこう語っている。「はじめは妻が非常に不安かったので、九州の田舎に帰れと言ったのですが、子供がちょうど一歳になったばかりで、長旅もできず、そのまま留守をしています。応援に出るまでは、それ程気がつかなかったのに、こんなオヤジでも、やっぱりいた方が良いらしい(笑)んで、毎週顔見せに帰っています」

応援、出向は「余剰人員」を他の部署へ二時預かり”にする制度だが、それは一種のふるい落としにも利用される。「イヤならやめたっていいよ」という。効率化の別表現でもある。生産性向上が企業の至上命令であり、生産性向上競争は、ライバル企業との熾烈な利潤競争である。前に紹介した54P計画はその極限であり、日産はこれによって、トヨタひとり当たり年間生産台数四〇台に対して三五台と差がついていたのを、一気に追いつく作戦を樹てている。現場部門では年率一〇八-セント、目標年次までの三年間で三〇パーセントの生産性向上がそのスローガンである。が、これまでも、ほぼおなじスピードで、生産性向上はなされてきていた。七一年のひとり当たり生産台数を一〇〇とすると、七五年には一四四、四年間で四四八-セント向上の成果だった。

日産経営協議会が発行している「モーターエージ」(七五年一〇月号)には、「準直部門の効率化」についての部長の座談会が掲載されている。ここでの準直部門とは、「現場」における補助作業のことである。準直部門をいかに削減するか、という議論は、まずっぎのような問題意識から提起されている。「退職状況でみますと、直接部署は退職者の一番多かった昭和四八年から比べると現在はその数が三分の一に減っています。ところが準直部署の場合はそれがまだ半分程度までしか減っていない」(人事部第一労務課長)

つまり現場は三分の一に減らしたが、補助部門はまだ半分にしか減らしていない。もっと減らすためにはどうすればいいか、というのが、この座談会のテーマである。「栃木工場は当社では最新設備を有する工場としてスタートしました。人の面でも、特に準直、間接の数は、これで生産ができるかなと思う程の少ない人数でスタートしましたが、まだまだ合理化の余地は多分にあるのではないかと思ってます……それぞれの製造部署が直接品質について責任をもってやれば、車輛検査などの対外的になくす業務を除いては、検査はいらなくなっていくのではないかと思います。このような考え方をペースに現在、栃木工場は、準直貝を二割削減しようと取り組んでいます」(栃木工場第一製造部長)検査工はなくす、つまり安全よりも生産性向上の思想である。

追浜工場の検査部次長はこういう。「今年のはじめ頃から、工機工場と一緒になっていくつかのプロジェクトを組み、準直の効率化に取り組んできましたが、最近まとまったのをみますと、三億七〇〇〇万円位かけて一一五名程の省力ができる目途がでてきました」三〇〇万円かければ、ひとり削れるという。とにかく、人間を削って生産を上げるのが、生産性向上である。「村山工場はこうである。村山工場は合併後四、五年たった四六年頃組立ラインが長くなり、生産量も数千台から二万台に増え、それに伴って、間接・準直員も雪だるま式に増えました。従って、オフライン工場を比較すると悪い方の一位だったわけです。

2015年4月8日水曜日

バブル期前後の開発の失敗

集落内の人口構成は、三集落とも小さなところだから、町会長自身が頭で計算するだけですぐ分かる。だからうすうす問題があることは分かっていたが、とくにこれまでそのことを言葉にして問題化したことはなかったようだ。我々の調査に答えながら、「何かしなければならない」、この調査はそういう内省が働き始めるきっかけになった。バスは残っても、地域が残らないのではないか。高齢者の暮らしを守るだけでなく、将来のこの村を担う人材をいかに確保するかが重要なのではないか。とはいえ、少子化問題が核心だとしても、この問題には結婚や出生、就業なども絡んでいてどう取り組んでよいか分かりにくい。しかしそれでもやはり何かはしないと。こうした話し合いの結果を鯵ヶ沢町役場にも伝え、官学民連携の集落再生事業がここからスタートすることとなった。

ところで、官学民の連携と言っても、その官に当たる鯵ヶ沢町自身が、実は何か新しいことができる状態になかった。町はこのとき、財政再建団体すれすれの状況にあったのである。そしてこのことも、これらの集落の取り組みを考える場合の重要な文脈になるので、ここで鯵ヶ沢町の過疎問題とその対策について、その経緯を振り返っておきたい。鯵ヶ沢町は、青森県南西部に位置し、日本海に面した人口約一万二〇〇〇人の町である。近年は、秋田犬「わさお」でも話題となった町だ。昭和の合併前には鯵ヶ沢町、赤石村、中村、鳴沢村、舞戸村の五つの町村だった。

人口のピークは町村合併時の人口約二万三〇〇〇人(一九五五年)で、そこから一度も人口増加することなく減少を続けており、第3章で示したΛ型の人口推移を示す地域だ。一九七〇年から過疎法の指定を受けている(一時、経過措置団体。一九九〇年から再指定)。港湾機能や公共機関、商業施設が集まる鯵ヶ沢地区・舞戸地区が、都市・郊外的様相を呈しているのに対し、深谷地区を含む赤石川沿いに開けた赤石地区、中村川沿いの中村地区、鳴沢川沿いの鳴沢地区は農林業を主とした農村地帯である。これらの農村地帯は、川沿いに内陸山間部にまで集落が点在し、中村川・鳴沢川の上流部は岩木山に、また赤石川の上流部は世界自然遺産・白神山地に連なっている。

鯵ヶ沢は、近世には弘前藩の御用湊として栄えた。明治以降は鉄道の敷設などに伴って陸上交通への転換が進むが、町そのものはその後、西海岸地域の行政的・経済的中心地としての性格を強めていく。しかし、町村合併が行われた一九五〇年代から、公共機関の統合集約化が進み、鯵ヶ沢町の拠点性は弱まって町の衰退が始まった。それはおりしも、地域の主要産業である農林漁業の衰退とも重なっていた。こうした過疎化の進行を受けて、町では大規模施設の導入を進め、事態の打開を狙っていく。一九八三(昭和六三)年に七里長浜港の建設着工、一九八九(平成元)年にはリソート開発ブームに乗って鯵ヶ沢スキー場がオープンする。一九九四(平成六)年にはさらに鯵ヶ沢ゴルフ場、鯵ヶ沢プリンスホテルが建設されたが、七里長浜港はいまだ未完成。またリソート施設も、経営主体であるコクドが破綻し、現在は名称を変えて営業中である。

このような経緯を経ながら、鯵ヶ沢町はいわゆる財政再建団体すれすれのところまで行き、二〇〇六(平成一八)年に夕張市の財政再建団体入りが問題になった際にも、次の夕張としてひそかに噂されていた地域の一つとなるが、この財政困難の状況が生まれてきた直接の要因になっているのが、九〇年代に建設された、ある施設の存在である。JR五能線で、弘前から日本海に出ると、鯵ヶ沢駅に至る手前の海岸べりに見えてくる、ひときわ目立つ四角く大きな建物がある「日本海拠点館」がその問題の施設である。一九八九(平成元)年、町制一〇〇周年を記念し、町出身の有識者を招いて開催された「港町未来フォーラム」。ここでなされた提言が、「環日本海時代の到来」「観光開発」「人材育成・国際交流」でめった。

2015年3月9日月曜日

円高後悪化した雇用情勢

86年以降の円高不況の中で、雇用についてはかなり悲観的な見方が強まった。まず、雇用全体を見ると。失業率が上昇した。日本の失業率は低いことで有名だったが、87年5月には3.2%まで上昇した。日本もいよいよ高失業時代に入ったという議論も現われた。

生産現場だけでなく事務部門にまで及びはじめたマイクロエレクトロニクス技術革新が雇用機会を奪うのではないか、日本企業の海外への進出による。空洞化”が、国内の雇用情勢を深刻化するのではないかといった点も大いに心配された。労働組合が、賃上げより雇用機会の確保をという意識を強めてきたのもこの頃からであった。

また、マクロではある程度の雇用のレベルを維持できたとしても、ミクロのレベルでは労働力の需要と供給がすれ違うという、いわゆる「ミスマッチ」論もさかんに主張された。

その第一は、若年層と中高年層とのミスマッチである。日本は急速に高齢化社会に移行していくことが確実であることを考えると、もともと中高年層の雇用情勢が厳しいものとなることは予想されていたが、円高不況の中で、企業は中高年層をターゲットに雇用調整を始めたので、年齢別のミスマッチ現象はさらに目立つことになった。

第二は、都市部と地方との地域別にみたミスマッチである。地方では輸出型産業の生産が落ち込み、公共投資も抑制されていたから、都市部に比べて雇用情勢が悪化した。

第三は、産業別のミスマッチである。産業構造の変化により、造船、繊維などの「構造不況」産業では余剰労働力が発生する一方、サービス産業では雇用機会が拡大するといった動きが現われる。87年版の「労働白書」は、93年までに予想される経済構造の変化を達成するためには、第二次産業から二百万人以上が流出し、第三次産業に二百万人以上が流入する必要があると推計した。

第四は、職種別のミスマッチである。とくに、コンピュータ、情報、ハイテク関係の専門的職業分野で雇用機会が増大しても、職種転換はそれほど簡単ではないため、ミスマッチが目立つことになったのである。

こうして雇用について悲観的な見方が強まったのは、基本的にはすべて円高が原因であった。円高に対して企業は設備・雇用の調整による合理化にとり組んだ。その影響は相対的に労働コストの高い中高年層を中心に現われた。円高は産業構造を大きく変化させ、輸出依存度の高い素材型産業が立地する地域の雇用がとくに打撃を受けた。

産業構造の変化は労働需要の中味にも影響を与え、職種別のミスマッチが強まった、という具合である。しかし、これは日本経済が円高にまだ適応できない間に生じたことであり、その後、円高への適応が急速に進むにつれて、悲観的な見方は大きく変化することになる。

2015年2月9日月曜日

所得は高くても購買力は低い日本

それ以外の六費目については、おおよそ、対応している。このように費目の対応が二つのデーターセットで違う場合には、通常、費目分割が粗い方のデーターセットにあわせる方がよい。もし、粗い方のデータではなく細いデーターセットに合わせようとすると、それこそ、経済企画庁に行き、原データから集計し直さなければならない。そのようなことは経済企画庁にいる人でなければ到底できない作業である。

ここまでは経済分析が行われる際の地道な作業について書いたが、ここから内外価格差がどのようになっているのかを具体的な数字をあげて説明しよう。一九九四年の『物価レポート』によれば、東京の価格はアメリカ合衆国やヨーロッパのどの都市よりも高い。平均的に東京の価格はニューヨークの価格の一・四〇倍、ロンドンの一・四六倍、パリの一・二六倍、ベルリンの一・八倍にもなっている。

この数字は東京を一に直すと、ニューヨークでは〇・七一、ロンドンで〇・六九、パリで〇・七四、ベルリンでは〇・七二という値になる。このように平均的にみれば、東京の物価はアメリカ合衆国やヨーロッパの諸都市と比較して四〇%は確実に高いことになる。それでは個々の費目の価格についてはどのような価格差があるのだろうか。これを次にみよう。

表には『物価レポート』によって公表され、私か推定のために加工したデータがある。ここでは四つの都市について、八つの費目の東京との価格比較が行われている。この表の見方は、ニューヨークやヨーロッパ諸都市の当該費目の価格を一〇〇としたとき、東京の価格はいくらになるだろうという指数である。食料費の価格を比較してみると、ニューヨークを一〇〇とすると東京の価格は一・六倍、ロンドンと比較すると東京の食料価格は二・二倍、パリやベルリンと比較しても一・九倍も高いということである。このように東京の食料価格が他の都市と比較して二倍もするということは、経済原則から考えても、なにか市場に大きな異常があるとしか考えられない。

2015年1月12日月曜日

外国勢力が衝突する中央アジア

四二年一月、一九万ポンドの金と一四万ポンド相当の物品をさしだすことで反乱側をなだめ、激減した四五〇〇のイギリス軍は二〇〇〇の役人をつれ、雪中をジャララバードめざして落ちのびた。それをめがけて待ちぶせていた反乱側か総攻撃をかけたため、イギリス軍は全滅し(一部は捕虜となった)、ジャララバードにたどりついたのはイギリス人の医師ひとりだった。

寒さと食糧不足にさらされ敗走した点で、一八一二年にロシアから退却したナポレオン軍と共通していたと、エングルスは付記している。そのままではイギリスの威信にかかわる。イギリスは再び軍隊を送り、アフガニスタンの各地で殺戮をしてまわったあと、ドストームハンマド国王を復位させることで、四二年の末にどうにかイギリスは第一次アフガニスタン戦争に幕をひいた。

アフガエスタンには、低緯度の山岳国の特徴として、あらゆる気候帯が存在する。北東から南西に走るヒンズークシ山脈の裾野の草地では羊が放牧され、その毛で絨緞が織られた。麓をとりまくように町が点在するが、いずれも山から流れだした川の岸やオアシスに立地する。低い谷にはあらゆる果物が育ち、綿や砂糖きびが栽培される。平和であれば文字通りの桃源郷である。

だが、エングルスが指摘するように、昔から外国勢力が衝突する中央アジアにあって、アフガニスタンに暮らす人々は勇敢・不屈・独立の民で、牧畜と農業には献身的だが、商業を軽蔑しヒンドゥー系その他の都市民にまかせてきた。彼らにとり戦争は心の燃えるもの、単調で苦しい仕事からの解放だった。政治的には、部族の長が一種の封建的支配権をもち、規則にたいする嫌悪と個人の独立心のため、アフガユスタンはひとつの強力な国家にはならなかった。「君主国だが、不覇奔放な臣下にたいする国王の権威は個人的なものにとどまり、きわめて不安定である」。

エングルスの記述は、ことごとく千言的である。一六〇年経った今も、大筋はあてはまる。イギリスは、潜水艦から巡航ミサイルをアフニガスタンに打ちこみ、イタリアへ亡命していた前国王を、戦争が終わったら連れもどして据えようという国際協議に一役かって出た。イギリスがアフガユスタンで何をやってきたか、イギリス人で知っている者は口をぬぐい、歴史教科書から消されているから一般市民はあまり知らない。だが、トニー・フレア首相が知らないはずはない。

2014年12月9日火曜日

アメリカがライバルを育てた

歴史の教訓は、はっきりしている。軍事力は経済力が衰えたあともしばらく維持できるかもしれないが、最終的には基礎に強い経済力がなければ軍事力は維持しきれないのである。湾岸戦争におけるアメリカの勝利は、二一世紀にもアメリカの軍事大国としての地位が不動だろうということを意味するだけで、アメリカが二一世紀にも経済大国の地位を維持できると言っているわけではない。

第二次世界大戦が終盤を迎えたとき、日本とドイツの経済をどうするかで戦勝国どうしのあいだに激しい議論の応酬があった。ローマがカルタゴに勝ったあと畑地に塩をまいてカルタゴの経済を二度と芽が出ないよう破壊しつくしたのにならって、日本とドイツの経済も徹底的に叩きつぶしてしまえという声もあった。ドイツのほうが日本より先に降伏したので、ドイツでは実際に組織的な産業基盤の破壊がある程度おこなわれた。とくにロシアによる東ドイツ地域の破壊が著しかった。しかし最後には、どこまでも人の好いアメリカの主張が勝った。

経済的に豊かにしてやれば民主主義陣営に加わるだろう、アメリカに商品を買ってもらわなくてはならないとなればアメリカの味方につくだろうと、これがアメリカの論理だった。この単純素朴な論理にもとづいて、アメリカは第二次世界大戦で荒廃した国々に敵味方の別なくマーシャループランを提示したのだった。マーシャループランはソ連や東欧の共産圏諸国にも差し伸べられたという事実を、とくに指摘しておきたい。だが、アメリカが申し出たマーシャループランを、元帥スターリンははねつけた。

第三世界の貧しい国々に対する援助も、同じ発想から生まれた新しい試みだった。第二次大戦前の植民地主義の世界では、第三世界の国々は自国を豊かにするための存在でしかなかった。植民地経営がはたして経済的にプラスだったのかどうかについては歴史家のあいだでも見解か分かれているが(利益よりも植民地を維持する費用のほうが余計にかかったのではないかという説もある)、植民地支配の目的については疑う余地がない。自分たちが豊かになるために植民地の富を搾取するのが目的だったのである。

第二次世界大戦後の経済成長の数字は国によってさまざまだが、成功例のほうか失敗例よりもはるかに多いことはまちがいない。先進国からの援助と輸出品を買い上げてくれるアメリカ市場のおかげで、第三世界の国々のほとんどが一九五〇年から一九八〇年にかけて史上空前の経済成長を達成した。ほんの一〇力国あまり(ほとんどかアフリカの国)を除いて、インフレ修正後の一九八〇年の国民生活水準は一九五〇年の水準よりはるかに向上している。

2014年11月8日土曜日

モラトリアルの確立が必要である

もちろん、犠牲的精神で本当に苦労なさっているお役人の方々も沢山おられます。それは充分に認めながらも、一部の役人たちの中には、どんなに苦労して一生懸命やっても、逆に一日中ハナクソをほじくっていても、もらえる給料は同じだと悟っている方々がいるようです。

そういう人がどれくらいの数いるのか分かりませんが、よほどのことがないと問題を問題として認識してくれない現実があります。あるいは、事件を事件として扱ってくれません。

問題として認識してくれないと、解決もされませんし、うやむやになったり、「なあなあ」で適当に処理しようということになりがちです。そうした「うやむや」にするための方法なども、役所にはちゃんと整備されているようです。

この背景には、「法律違反などは、そう簡単にあってはいけない」という先入観、偏見、不文律のようなものかおり、法律違反をなかなかスパッと認めにくいということがあります。裁判官は、もし「問題あり」などと認めてしまうと、同種の問題を抱えた人々が救済を求めて殺到することを危惧します。ただでも忙しい裁判官からすると、ぞっとする事態でしょう。だから、よほどのことがないと裁判で違法が認められにくいのです。

2014年10月8日水曜日

沖縄移住ブームは定着するか

この豊かさ指標に対しては連続全国最下位となっていた埼玉県知事などからの強い批判もあり、経済企画庁は十年ほどで「豊かさ指標」発表を取りやめにした。当然のことだろう。統計には表れない、統計では表すことができない「豊かさ」や「居心地のよさ」が沖縄にはたくさんある。だからこそ、人々は沖縄に惹きつけられ、沖縄に移り住む。私はこれらのものに魅せられて沖縄に移住したわけではないが、最近の状況を見るにつけ、先見の明かあったのではないかと、秘かに自負している。

時事通信社が全国の有識者七百五人を対象に実施した「住んでみたい都道府県」調査(二〇〇五年)によると、沖縄が圧倒的に全国一位だった。二位以下は静岡、京都、東京、福岡、北海道と続く。芸能人や著名人の中には沖縄移住を考えて、住む場所を探しているという話もよく耳にする。既に、沖縄に別荘を持っている人もいる。本土では見られない亜熱帯の空や海に身を包まれて、南国ののんびりしたスローライフの中で生活すれば、心身ともにリラックスして、生き返った気分になる。沖縄に住む者として、移住希望者が多いということをうれしく思うと同時に、気になることがないでもない。

数年前から沖縄移住が一種のブームのようになっている。それは多くの日本人が、家庭、家族を犠牲にしてまで会社人間として仕事に明け暮れ、リストラに直面、あるいはリストラされないまでも、いつ解雇されるか分からない状況に置かれるようになっていることと無関係ではあるまい。自らの将来を思うと、このままでいいのかと不安になり、それだったら、いっそのこと、物価も安くて、生活もしやすそうな南国・沖縄へ行こうか、と考える人が増えてきたからだろう。二〇〇七年以降、団塊の世代がどっと定年を迎えるが、これらまだまだ若い定年団塊世代の目が沖縄に向いて、移り住む人も増えていくに違いない。

沖縄で、のんびりした南国の生活を楽しむのは素晴らしいことだ。若いときだと、自分たちがしたいことを、したいときにしていればなんの問題もない。ダイビングを楽しみ、南の離島で南十字星を眺めればいいだろう。都会で、小さなアパートに住み、長い時間、通勤電車に揺られてあくせく生活していたことを考えると、南国は楽園、夢の島だ。ところが、それなりに年をとって、家族で沖縄に移り住むとなると、事情も変わってくる。軽井沢などに別荘を持ち、夏の間だけ時間を過ごすというのと、ずっと住み続け、生活するのとではまったく違う。その土地に住むということは一時的な旅行と異なり、周辺の人たちと付き合い、コミュニティーと関わり合いながら生きていくことであり、これらを抜きにしては生きていけない。見落としがちであるが、大事なことだと思う。

沖縄でもマンションが立ち並ぶ都心部では隣近所のことは気にしなくても済む。だが、地方に住むとなると、その土地の祭りや集落の会合などにも顔を出さねばならず、都会から来た人たちにとっては煩わしく思うことも多いはずだ。沖縄戦のことは関係ない、歴史や文化も知らなくていい、沖縄には癒されるために来たのだから、という気持ちではその土地の人とうまくやっていけるかどうか。沖縄に限らず、地方に暮らすのであれば、全国どこでも同じだろう。言葉も違い、風習も異なるところでの生活に馴染めずに、沖縄から引き上げたという人の話も聞く。沖縄に魅せられて移り住む若いカップルも多いが、子どもが中学、高校進学の時期を迎えると、子どもの将来のことを考えて落ち着かなくなり、都会に戻っていくケースもまた多い。

2014年9月8日月曜日

日本でも高い利益率を目標にかかげる企業か増える

事実、業績の良い日本企業を見てみると、過去二〇年間の投下資本利益率は政府の発行する債券の利率よりも低いのである。ホンダがよい例だ。ホンダが自動車の生産に乗り出そうとしていた一九六五年から一九八〇年までの一五年間、資本利益率はオートバイだけを生産していた頃の九パーセントからわずか三パーセントに激減した。三パーセントの利益率なら、同じ金で政府債券(アメリカでも日本でも)を買ったほうかはるかに利率がいい。そのことを重々承知のうえで、それでもホンダは利益率が低くリスクの高いほうを選んだのである。

日産自動車の首脳は新車種の「インフィニティ」を発表するとき、むこう五年間は利益を期待していないと語った。アメリカだったら、四七パーセントの企業が初めの三年間で利益が出始めないような事業には投資しないだろう。アメリカ企業と同じ投資規準を設定している企業は、日本ではわずか一〇パーセントしかない。

日本企業が円高にうまく対処できたのは、投下資本利益串を低く設定しているのに負うところが大きい。一層勤勉に働いてぜい肉を削る努力を重ねる一方で、松下や日立などのように利益を半分にしてでも市場競争力を維持しようという方針が効を奏したのである。松下の場合、一九七〇年代初めには売上げに占める利益の割合が一二パーセントを超えていたのに、一九八〇年代の末には七ないし八パーセントまで落ち込んでいる。日立の場合、利益の割合は一一ないしこ一パーセント台であったのが、六ないし七パーセントまで落ち込んだ。

ロンドンービジネスースクールと『エコノミスト』誌が最近おこなった、企業の純利益(収益から原材料費、賃金、生産に必要な資本コストを差し引いた残り)調査によると、売上げに対する純利益の割合が多い大企業(売上げが一〇億以上)上位三〇社のうち、二三社がアメリカ企業、四社がイギリス企業で、日本企業は一社もはいっていなかった。もう少し小規模な企業についても同様な調査をおこなったが、やはり上位三〇社のなかに日本企業は一社もはいっていなかった。

このところ日本でも高い利益率を目標にかかげる企業か増える一方で、より高い資本回転率やより大きなマーケットーシェアをめざす企業は減ってきている。しかし、「利益の極大化」といっても日本のタイムスケールは非常に長いので、アングローサクソン系企業のいう「利益の極大化」と同一に論ずることはできない。仮に市場金利を一〇パーセントとした場合、いまから一五年後の利益は一ドルに対してわずか二四セントにしかならず、それまでの一五年間にかかったコストをカバーできるとは思われない。

おもしろいことに、日本人は利益を第一に追求するアメリカ企業の姿勢こそアメリカ製品の国際競争力を低下させる最大の原因であると考えている。この見方を裏返せば、日本企業がみずからの強さの原因を何と認識しているかがわかるだろう。投資目的の株主から見れば、自分の持ち株に買い手がたくさんつけばつくほど高い値段で売却できるから好都合、ということになる。良い値がつけば売るIこれが普通だ。しかし、生産志向の経済論理では、企業運営の独立性を守るために、高値がついても株を売らない。